Festina Lente2

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ベン・ハーにはなれないから

本日の映画は『ベン・ハー』。
時間があれば再放送、何度見ても見てしまう。
読書と同じで、その時その時に違う発見。
色々人生を考えさせられる。
ユダヤ人であること、ローマ人であること。
神を信じることに違いは無けれど、一神教多神教
宗教の違いは信念の違い、生き方の違いになる。
友情・信頼が、あっという間に征服民と非征服民の関係を表面化。
支配するかされるかの憎しみに満ちた関係に。


この映画の背景にはキリストの一生が散りばめられている。
その当時から2千年以上経った現在も、戦争はなくならない。
人々の間での争い、諍い、憎しみ合いの構図は続いている。
神の御子の血で購われたはずの、原罪の許しは何処へ消えたのか。
私たちは過ちを犯し続け、何処に救いを求めていいのか悩ましい。
自分が大人になった時、世界はもっと明るく開けているような、
小学生の時に想像して絵に描いたような未来図は何処にも無い。


コンピューターと携帯電話は目覚しく発達進歩したかもしれないが、
この膨大な情報を処理する機器を駆使しても、戦争は無くならない。
かえって『ハート・ロッカー』じゃないけれど、
予測不能の肉弾戦テロばかりが増加しているような気がする。
誰かと競い合い、実力の差でもって堂々と戦い・・・という世界は、
とうの昔に消え去って、スポーツの祭典といえども、疑心暗鬼。
誰かにどこかに有利なように採点・得点の方法が変わる、なんてね。


ベン・ハー』の映画の見せ場。
4頭立ての馬車で繰り広げられる華麗な戦い。
見せ場でもあり復讐の場でもある、この競技場でのシーン。
敗者には残酷な結末が待っている。
ガレー船に繋がれる人生、死地を脱して来たベン・ハーに対して、
異様なほどの対抗意識を燃やすメッサラ。
ライバル意識は、おそらく幼い時から育まれたのだ。
生まれながらにして裕福で、恵まれた環境で育った名家の御曹司。
自分には無いものに対抗するには、ローマの権力を傘に来て、
ベン・ハーを蹴落とすことで、一気に自分の名を高め
組織内での有用性を見せ付けて優位に立とうとしたメッサラ。

ベン・ハー 特別版(2枚組) [DVD]

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ベン・ハー―キリストの物語 (アメリカ古典大衆小説コレクション)

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対抗意識、それは青春時代にはお互いを刺激し合い、
個性を伸ばすためには良いものだとされている。
しかし、成人後、いい意味でライバルであり続けること、
競争心を持ってお互いを高め合うことが難しいのは、
多くの人間が経験していることだ。社会に出ると醜い争いが多い。
利害関係が絡み、立ち位置は自分の理想から離れる一方。
多くの人間が、経験しなくてはならないこと。
その争いの中に身を置いて生きていくのか、何かに加担するのか、
さっさとその場から身を引いて生きていくのか、
長いものに巻かれて、それとも付かず離れずで、
トップが替わるごとに玉虫色に自分を変えて生きていくのか、
自分を前面に出して生きていくのか。妥協するのか。
諦めるのか。


仕事での生々しい時代はもう過ぎ去ったように思えるけれど、
組織の中で生きていると、存在価値を認められたいと思うと同時に、
歯車の中での位置を確保しながら生きるのは疲れた、
結局上の人間の思う部品の一部に過ぎないと感じる年度末。
やらなければならない事をするのはプロの仕事だが、
やりたいことも出来ない、その環境を整えようとすると、
仕事が倍倍になって戻ってくる、雪達磨式に増える仕事。
結局何かを始める人間、こなす人間、請け負う部署に集中、
この繰り返し、このパターンの中で疲れ果ててしまう。


ベン・ハー』の世界、神に見守られる事を実感しながら、
信じる事の意味を噛み締めながら生きる、そういう生活に憧れる。
奇跡は何時起きるのだろう、その諦めにも似た思い。
人生のどん底。多分、それはまだ経験していないから?
底だ・・・と感じた時から丸5年以上が過ぎようとしている。
家族の病状も落ち着き、小康状態が続き、娘は健やかに育ち、
働く場所があり、住む所にも困らず、この生活を感謝せずにどうする?
そう思いながらも、何かを望む、そのために齷齪するのは贅沢なのか?
そんな思いに浸りながら、BS映画劇場を見ている夜。


信じて精勤すれば報われる、そんな風に思えなくなってくる毎日。
年を取るってこういうことなのか。
もっとも、バブル崩壊以前、オイルショック以前に生まれた人間は、
何かをすれば報われるという観念が染み付いていて、
それ以後生まれた人間は、もっと刹那的な人生観が染み付いているという。
だったら、世の中はもっと荒んでしまうだろう。
ベン・ハーのように復讐する相手を具体的に持たない。
メッサラのように誰かを目の敵にするほどのライバル心を燃やして、
己の栄達を求めて生きようとも思わない。
なのに、このままでは嫌だと思う毎日。
年度末は切ない。報われたり思い通りになることなど、
本当にありはしないのだと実感させられることばかりが続く。


信仰を試されるほどの「信念」を持ち合わせて生きているわけではないが、
何を持って矜持とするか、ぐらつくのが年度末。
試されるとしか思えない年度末。
仕事の中身の重要さと同時に感じる、余りの虚しさに。
それを贅沢だと言われれば返す言葉も無いのだけれど、
この虚しさが年々増すのは、年のせいではないと感じているせい?
そう思うとますます落ち込む。
映画の中の、顔の見えない、決して顔の映らない人物の、
ベン・ハーに与えられた奇蹟。
実はそのものに支えられているはずの毎日なのに、
不平不満で済ませている自分への弱さ。
それを感じずにはいられない、今日この夜。

ベン・ハー

ベン・ハー

すぐわかる キリスト教絵画の見かた

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