Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

勉強会の効用

久しぶりに勉強会。スーパーバイズを受ける。
同窓の仲間がケースを出すというので、安心して私、用意せず。
集まるはずの仲間が怪我をして欠席・・・。あれまー。
前回は、私がすっぽかしてしまい、今回だったのだが。
そう、シロの死に頭が真っ白になっていたので、
予定表からすっかり勉強会は消されていた私。
全くもって申し訳ない。
みんなに慰められたものの、契約関係のある仕事なら・・・。


自主的かつ融通のきく少人数の勉強会だからこそ、
2年近くぽつぽつと続いて来た。
最初は義務付けられていたから、当たり前だなあと思いつつ、
享受している機会のありがたさにしみじみする今日。
何故職場ではこういうことが出来ないのだろうと、
改めて不思議になる。
立ち止まり、振り返り、みんなの意見を交換し・・・。
共に考え・・・。


そう、職場にはスーパーバイズできる人間がいない。
上下関係、利害関係がその立場の人間を設けない。
存在する事を許さない。機密保守、秘密保持が守れない。
自分自身を守り、認められながら、意見を述べる場が無い。
職場は家内制手工業に毛の生えた程度の、技の受け継がれる事の無い、
生産性の低い、個人経営の店がひしめく時代遅れのアーケード街のようだ。
固定客があるのをいいことに、ニーズを把握すること以前に、
自分のやり方に固執する、専門が異なるのを幸いに
互いに切磋琢磨しなくても己は傷つかないと胡坐をかく。
お互い気に入った人間関係の中に埋没し、情報のやり取りをする。
結局は派閥を作って、居場所を確保することになる。


職場では、与えられた役職の中に閉じ込められたような感じ。
それは自意識過剰かもしれないし、過剰適応かもしれない。
でも、日に日に疎外感は強まるばかり。
何故、こんな風に思うのか、思ってしまう自分なのか、
情けなくなると同時に、仕事用の顔を保つのがしんどくなる。
しなければならない事をするのがプロだ、
任命・拝命・依頼・割り当てられた事をこなすのが仕事だ、
そう思いながらも、周囲との距離を感じずにはいられない。
当事者ではない者として、うつつを抜かしているような、
一線画して動き回っているような、
そういう曖昧模糊としたいい加減な存在に堕したような、
居辛いやりきれない思いが続く。


何度も去来する思い。「仕事をやめて自由になりたい」
「好きな事を仕事にしたい」
でも、好きなことって何だ? いったい何をしてどんな自由に?
曖昧模糊としているのは自分自身の思い、在り方。
そんな毎日を、与えられた役割の締め切りだけが、
かろうじて自分の立ち位置を意識させてくれる。
朝起きて出かける仕事がなければ、早朝覚醒しても、
パソコンの前に座ったまま、何もせず一日過ごしてしまうのではないか。
食事の用意もせずに、だらだらと一日を終えてしまうのではないか。
そんな気持ちさえする。


家の中では親として、母として、娘として、妻として、
色々役割はあるものの、自分は何かと問われたら、
いかにも心もとない。仕事人間は仕事から離れると何ができるのか。
趣味のサークルに入っているわけでもない。
そんな余裕もなく、娘と過ごす時間を週末に確保する日々。
10年もして定年退職となった時、自分はどんな人間で、
何処で何をしているのだろう?
社会に出るのを目前にしている娘に、どんな姿を見せられるのだろう?

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そんな中でケース検討を行い、普段自分の囚われている思いに
気付かされ、意識させられ、改めて直面する時、
如何に先入観に囚われて物事を受け止めているか、愕然とする。
「どうしてどんな風に思ったの?」
「どうしてそういう風に受け答えしたの?」
「いったい何が起こっているんだと思う?」
「ここから見えてくることは、何?」


人は、毎日走り続けている。動き続けている。
停滞しているように見えて、変化している。
もちろんずっと同じ位置に立ち止まり続けている、
全く変わらないように見える人もいるけれど、
時間は確実に過ぎていることには、誰も変わりは無い。
それを意識するか、繰り返し繰言に変換しているか、
全く違う場面に繋いでいるか、どんな風に変化しているか、
どんな風に受け止めている(つもりな)のか。


この頃、時間を振り返る、そのスパンが長くなった。
未来を夢見ることが出来なくなった年齢だからか。
確かにこの先生きていく(生きていけるはずの)年月よりも、
今まで生きてきた時間が遥かに長い。
振り返る機会が多くなった。未来を信じないわけではないが、
職場で残された時間は長いようで、実は短い。
出来ることは限られている。先が見えているのに、
やらなければならないこと、やらされることは決まっている。


地味に年老いていくのが目標ではなかったが、
派手に何かをするのも目標ではなかった。
さすれば、何を目標にしてきたのかと問われると、
仕事の中に自分はなく、家庭の中に見出そうとした10年間であり、
その平安と思われる日々は、予測しない所から裏切られ、
崩れ去ったのだと思い知らされ、
子育てのための糧を、家族を維持するための糧を得る、
それを第一義に考え、仕事を引き受けてこなしてきたのだった。


自分のための仕事ではなく、与えられた事を如何に全うするか。
その中に自分のしたい事を如何に盛り込めるか、
盛り込もうと努力できるか、自分の視点をやり方を持ち込めるか、
そうでもしなければ、自分の存在価値は何処にも無いのだと、
切ない思いで仕事をしてきたはずだった。
「誰が私に言えるだろう、私の命が何処まで届くかを」
世界に繋がる自分をイメージした時から、思い描いたような、
素晴らしい世界や広大な世界は何処にもなく、
日々齷齪する些細で矮小とも思える繰言の中に、
呻吟に満ちた生活の中に、振り返るべき何かがあると立ち止まる。


そんな時間が、スーパーバイズを受けるケース検討の時間だ。
全く自分とは異なるものを取り扱いながら見えてくるのは、
自分のものの受け止め方であり、認知の仕方であり、
日常の過ごし方であり、自分自身の過去をなぞらえる作業だ。
「人の振り見て我が振り直せ」という余りにも単純な昔からのことわざを、
今更ながらのように噛み締める時間だ。


諺とはよく言ったものだ。事の技、言の技、事の業、言の業。
恐ろしい掛詞だ。深遠なる物言いだ。
人を見て自分が見えてくる。
人を見て、自分がどんな風に世界を見ているかが分かる。
物事を通じて自分を感じることが出来る。
物事を通じて世界との接点を意識する。
繋がっていないわけではない、何も見ていないわけではない。
人は見たいものを見、聞きたいものを聞く。
見えど映らず、聞けど聞こえず、日々を生きている。
それはまた、自分も然り。


ケースの取り上げ方、ケースのまとめ方、ケースの提示方法、
書いたものをどのように読み上げ説明するか、
同じ物事を解釈するにも、本当に一人一人違う。
それは分かっていても、日常生活の中や仕事では
いちいち口に出したり意見を述べたりはしない。
だから最近「呟く」事が流行っているのかもしれないが、
出来れば聞いてほしいんだけれど、聞いてくれなくても構わないという、
押し付けがましくないような姿勢を取りながら、
実は文字化して自己顕示欲を散らつかせる、
小出しにしているようで存在価値を認められたい衝動を隠し持つ、
不特定多数の世界に埋没する肥大化した自我を取り扱うのではなく、
限られた中で肉声でやり取りし、意見を述べ、
それぞれの思いをはっきりさせる、
その道の専門家、先輩、経験者、共に学ぶ仲間によるケース検討会。


守られた安全な場で守秘義務に基づいた勉強会は、
仕事でも家庭でも押し殺しているありのままの自分を、
失っているように感じられている自分の立ち位置を、
まるで地面が透き通ったかのような感覚で見せてくれる。
自分のルーツ、自分の根っこが何処に伸びているかを。
ただし、それは魔法の杖を一振りして見えてくるものではない。
根っこの伸びている先は一様ではない。
何もかも同じ深さまで伸びているわけではない根っこ。


そして、何処までも伸びているわけではない自分の手足。
限られた体の先にあるアンテナ。
心の枝葉の茂れる先は?
誰が私に言えるだろう。
私の思いの何処まで続くかを。
そう、限られた時間だけでも限られた場所だけでも、
自分が自分であり続けることができるための。
それが勉強会の効用。
損得も利害関係もなく。

臨床心理アセスメント入門-臨床心理学は,どのように問題を把握するのか (臨床心理学レクチャー)

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