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アリエッティとツィッター 

印象に残ったシーンは、借りに行くのではなく狩りに行く所。
サバイバルな知力腕力が無ければ小人達の「借り暮らし」は成り立たない。
アリエッティが忍者のように壁をよじ登るのに使っていた道具が、
誰のものだかピアスだったのが凄い。
それにしても、見ても見なくても良かったかと思うくらい、
印象の薄い映画。『床下の小人達』に思い入れがあるわけではないが、
どうも、しっくり来ない世界(観)だ。

小人の冒険シリーズ 全5冊セット (岩波少年文庫)

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評判と比べて面白くない。『ハウルの動く城』も『ゲド戦記』そうだが、
ジブリジブリらしいオリジナルを作るべきであって、
原作のイメージを借りてこなくてもいいと思う。
原作があればあるほど、ジブリのアニメ作品はつまらない。
原作が強烈であればあるほど、映像化してこれなのか? とがっくり来る。
個人はその最初に受けたイメージを大切にして子供時代を過ごし、大人になる。
かつてのイメージに重なるような、共鳴するものであれば受け入れやすいが、
違和感が大きくなればなるほど、作品に魅力を感じるのは難しい。
感性ではなく理性で共感しなければならなくなる。
ストライクゾーンの広さではなく、質的なもので? が大きいとしんどい。


原作を知らない世代がこのアニメに魅了されるのは仕方が無いが、
私にとっては、それは、ある意味恐ろしい。
何も知らない人間を視覚から取り込み、洗脳する。
焼きついた視覚イメージを取り払うのは難しい。
視覚イメージから入ると、文字から自由に創造する力は完全に奪われる。
宮崎アニメの世界がいつもオリジナルとなり、
自分の脳内で紡ぎだす力やイメージは大抵貧弱であり、封じ込められ易い。
それを振り払って自分の力で新しい世界を切り開くことができるのは、
ごく一部の恵まれ差才能を持つクリエイティブな人間であって、
凡人は一度植え付けられたイメージから逃れることは難しい。


意図する所有る無しに関わらず、影響力を以てして洗脳してしまう存在。
それは恐ろしい。私にとってはこの侵食してくる影響力は恐ろしい。
作品世界を解釈する上で、自分の世界ありきではなく、
指定された色や形がある。既存のイメージが大きいというのは、
子供の世界にとって余りいいことではない。
私たちの世代は漫画世代で、アニメの恩恵も享受したが、
それ以上に文字からの刺激も大いに受けて育った世代なので、
両手に花だったのだが、今の子供たちは違う。
文字からの刺激は少なく、既存のイメージに取り込まれ、
洗脳的な模倣が甚だしい。


誰もが模倣から入るじゃないか、
真似から学ぶじゃないかと言われればそれはそうだが、
何かしらのイメージの共有がアニメでなくてはならないのか、
偏ったある種のアニメに求めていいのか、
素直に受け入れがたい思いを抱いている私。


例えば情報発信はブログよりもマスコミよりも
今やツィッターと言われる。
(仕事でもツィッターで状況報告できるかと問われ目を白黒。
 何か間違えてやしませんか?)
これだけ好き勝手に呟いている時代、呟くことが時代の主流・潮流、
ちょっとした思考の片端にも上らない呟きが、時代を左右する影響力、
そんな茫洋としたイメージの広がりそのものが、
或いは断片的な片言が不特定多数になぞられることを想像すると、
少々違和感のある(保守的な?)私だからそう感じるのか。


「庇を貸して母屋を取られる」そこまで大げさでなくても、
呟き=情報(本音以前の意識の流れの羅列)を垣間見る視線に、
借り暮らしの慎ましさを持たない、
覗いて見ることができる、それが当然の「人間」側の意識が疎ましい。
我勝ちに呟く時代の有様が、借り暮らしの小人を探し覗きまわる、
そんな行動と重なって見えて、今の自分には何となく疎ましく、
うんざりするものであるのかもしれない。


もとい、慎ましくあらねばならぬ借り暮らしは、仮り暮らしであり、
サバイバルな狩りと借りが表裏一体となった仮りの住まい、
生き方であることに違いない。
相手に知られないように借りることができて「当たり前」の、
傲慢さ(油断)になったりしてはならないのではないか、
ツィッターが何かの枠組みを壊している実感が、
私のどこかでアリェッティと結びついて、心がチクチクする。


イメージの濁流の時代にあって、アリエッティ達のの撤退と旅立ちは、
何とも困難を極める。一度人間の探索が始まれば、善意であれ悪意であれ、
今までとは異なる生き方を強いられる。
一人一人の生き方の違いは一人一人の意識の異なり、ではなく、
未来SFの世界のように意識的集合体を視覚化して娯楽にする、
その濁流が、勢いが恐ろしい。


他者との接点を求めようとする余り、
個人の存在が情報の濁流ですれ違う木の葉として、
ただならぬ方向に吸い込まれていく木っ端でしかないと、
そして水をどんどん濁らせ、一斉に押し流すための浮力への加担として、
個人の存在も情報も扱われているならば・・・。


水を濁らせた自分自身が、浮力を増大させた一因であるから
情報発信力を持つ自分は偉大で、有意義な存在だと
必要以上に個人個人が自分を誇大視してしまうのなら、
世の中に借り暮らしの仮り暮らしは存在しなくなり、
お互いの距離をおもんぱかる思いやりも慎ましさも存在しなくなる。
アニメ映画の少年の好奇心や思いやりが、小人にとっては無用の好意、
結果的には迷惑そのものでしかなかったように。


「君たちは絶滅していく種族なんだ」
それは、世界中に呟くことで世界と繋がっていると実感し、
繋がっているから素晴らしいと単純に信じる、
その万能感にも満ちた危うさに似ている。
絶滅していくのは、あるべき垣根を認め設けて、
必要な時にその垣根を乗り越えようと、努力していく心の在りよう。


今の時代の、「発信」することでわかって貰えると信じる、
その無邪気を装った暴力、思いの垂れ流し、
通じることが全てを前提とする考え、
無闇に垣間見ることが一種の興奮を伴い、
それが知的な行動(作業)だと思い込まれていることが、怖い。
その一人一人に隠された傲慢さに躊躇することもなく、
心の「うち」で考え一人ごちて呟こうとはせず、
何事も「そと」に向かって放り出し、捨て、
その何もかもを情報視する、今の時代、流れの恐ろしさ。


アリエッティを見て感じたこと。
それは私たちが失ったもの。
苦労して取らなければならないはずのもの、
それを「巨人」がいとも簡単に親切ぶって行う。
「人間」側からの小さな親切は小人にとっては大きなお世話。
アリエッティは、家族と共に決断を余儀なくされる。
今のままではいられない。
「私達は見つかってはならない、見られてはならないの」


私も決断しなくてはならないか。
今の生活を、者の考えを、世界を、一切合財を押し流しに来る、
その動きに抗うことに疲れながら。
アリエッティの向こうに見えるのは、
自分自身の内部に向かいながら言葉を紡いでいるはずなのに、
外に向かって開かれようとする矛盾の中に感じる、
自分という存在のどうしようもない状態。
如何ともしがたい、厚かましい在りよう。


せめてリアルタイムで呟かずに、思いを暖めておきたい。
「無意味なまでに存在を認められたい」無意識の願望を増大させたりせず、
隠れて存在することの意味を考え続けたい。
改めてそう思わされた、アリエッティ

スタジオジブリ絵コンテ全集17 借りぐらしのアリエッティ

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