Festina Lente2

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土曜授業参観後、レオニー

休日授業参観というのは、ありがたいようで、
実は、正直言って余りありがたくない。いわば、痛し痒しだ。
むろん、親にとっては子供の学校の様子を知ることが出来る。
それはとても助かる。普段なかなか仕事を休めない親のために、
わざわざ休日を使っての授業参観。
しかし、本来ならば平日1時間程度で終わる授業参観が、
土曜の午前中半日を費やして行われるとなると、話は別だ。
おまけに先生方は代休が取れるからいい、生徒と一緒に。
しかし、平日に子供を野放しにしなければならない親にとって、
(もはや保育園に放り込むほどではないにしても)
余計な心配事が増えて困る週明けが控えているのだ。


そんなこんなで、夫婦揃って授業参観。
今回、5年生は体育館で合唱大会。(寒い)
音楽の授業参観ということになるのだろうか。
どうやら、これはこれでイベントであるようだ。
学科の授業は4時間目、やれやれ長丁場である。
体育館の席取りも早い者勝ちとはいえ、神経を使う。
うちのように一人っ子ならいざ知らず、きょうだいがいると、
出入りのし易い吹きっ晒しの出入り口に陣取らなければならぬ。
ビデオカメラ係の親ともなれば、我が子を映しやすい場所をと
きょろきょろするのだが、クラス順身長順、
我が子の位置を正しく把握することは難しい。


幸い背の高い娘は見つけやすかった。
音楽部所属で少々歌うことに執着を見せているようだが、
男子が一向に協力せぬ、とてもいい成績は望めそうにないと
ぼやくこと頻りなので、当てにしてはならぬようだとは思いつつも、
親としては我が子のクラスを応援せざるを得ない。
音楽の先生は普段の薫陶の賜物をどのように披露するか、
クラブ活動とは異なる玉石混交の生徒を相手に、腕の見せ所。
学級担任にすれば、普段の手綱の捌き具合が顕著に現れるか。
座学と異なる子供たちの様子を見られるのは、運動会同様、
なかなか滅多にある機会ではない。


課題曲と自由曲、2曲を指揮者も伴奏もクラスの生徒がこなす。
小学校5年とは思えぬ整然とした様子、ビックリ。
聞く態度もなかなかのもので、よく躾けられているようだ。
最初のクラスはまだまだ緊張もほぐれぬままで、
2クラス目は場慣れしてきて、程よく実力が発揮され始めた感じ。
さて、娘のクラスはどうかな?
元気は元気だがハーモニーの点ではどうだか・・・?


さて、成績発表。最近の運動会同様、みんな一等賞、ではないが、
あからさまな順位をつけないのが当世流なのだろう。
ハーモニー賞だのファンタジー賞など、当たり障りのない賞が続く。
しかしさすがに1等賞は別格らしく、わくわくどきどきの中で発表。
最後に残った二クラスのうち、どちらが優勝なのか。
・・・万歳! なんと娘のクラスが優勝!
親馬鹿なので素直に喜んでしまう。
元気さだけ・・・が裏目に出なくてよかったね。


その後は高学年の3学年が揃って、保護者もともに芸術鑑賞。
近隣の短大からクラブ活動の延長線上での演奏会。
そこには卒業生もいて、生徒達にとっては先輩の活躍を知る、
卒業生にとっては晴れの舞台ということで、双方に有益。
未来像を描かせるという点でも、モチベーションとしても大切。
こういう芸術鑑賞の持ち方も、いいね。


その後は、教室に戻って、4時間目算数の授業。
子供たちも大変かもしれないけれど、親もばてそう・・・。
算数は平行四辺形の面積の求め方。
三角形の面積の求め方から応用で、どんな風に考えるか。
様々な(三角形)からの求め方、アプローチを丁寧に行っていた。
うーん、自分もこんな風に習ったんだろうか。
全く記憶に残っていない。
多分、あんまり算数の教え方が上手な先生じゃなかったのかも。
小学生の頃から算数、数学の類が嫌いだった私・・・。



元気に手を上げる子供、字を書くのが早い子供、
さしを使って線を引く子供、様々な動作が目に付く。
そして、自分も経験したけれど計算ドリルの時間、
タイムを計って早く終わった人から手を上げる。
制限時間は2分間。・・・ああ、やっぱり。
予想はしていたが、娘の計算が遅い。
私はかつて算盤を習っていたが、娘には習わせなかった。
学童に行かせていたのと、近くに珠算塾がなかったため。
公文などにも行かせなかった。そのせいだろうか、
何だか少し落ち込んでしまう。


廊下に張ってある絵、お習字、比べるなと言っても、
低学年とは異なり出来不出来の差が大きく広がってきている。
どうしても否が応でも比べてしまう。
そして唖然とする。
胸がどきどきする。
何もかも多くを望んではいけないと思いつつも、
他の子供達のしっかりした筆遣い色遣いに目を見張る。
親というのは、どうして自分の子供のいい所悪い所を
素直に受け入れるのが難しいんだろう。
どうして完璧な自分の理想に近づけたがってしまうんだろう。

   

  


とにもかくにも今日の教材が全て終わらないうちに時間切れ、
子供たちは給食の時間、おやおや、着替え始めたところを見ると、
娘は給食当番だったようだ。では、ひとまずさようなら。
家人と散歩しながら帰宅する同様の昼下がり。
空は真っ青いい天気。正門の桜が見事な色だ。
路地の祠の境内も、棘だらけの電線の向こうの青空も、
何もかもすっきり澄み渡って気持ちがいい。


そして、2人でイタリアンランチ。娘が帰ってくるまで、
イサム・ノグチの母親を描いた『レオニー』を見る。
ちょっと期待外れだった。

  


観念的過ぎて、食事のシーンのない孤独な子育てに、
違和感が大きすぎた。
岡本太郎の母親といい、イサム・ノグチの母親といい、
芸術家を育てる個性的な母親は、およそ親近感を持てない。
浮世場離れた個性で、私が必死で築き上げようとしているものの対極で、
疲労感を蓄積させる内容だった。
後ろの席のご婦人は感極まって泣いていたが。

レオニーの選択―18歳少女の“政治”への旅立ち

レオニーの選択―18歳少女の“政治”への旅立ち


自由に自分の思うように生きる強さというよりも、
流れていく浮き草のような情熱、といった方が正しいような。
そんな生き方を周囲に認めさせて、自ら受け入れて死んでいく、
そういう描き方をしている監督の感性にも?を感じた。
20代だったらこの作品に感銘を受けただろうか。
早熟な天才たち、早世した才媛たち、神に愛されて早く世を去った、
そういう人とは異なる凡人の時間を生きてきた人間としては、
やっかみも半分込めて(笑)、なかなか受け入れがたい世界を、
日本の文化や、男性女性像を誤解されかねない描写で描いた
その意図を測り切れないまま映画館を出ることになった。


単にタールを水で薄めたような色彩で描かれた画面が、嫌だったのかも。
女性として、得体の知れない体当たりの生き方をしている、
その翻弄のされ具合と開き直りに、嫌悪感を感じているのかも。
世間の前評判のように『レオニー』が傑作だとは思えなかった。

レオニー オリジナル・サウンドトラック

レオニー オリジナル・サウンドトラック


最初がだるすぎて、思わず寝かけてしまうほど。
谷崎潤一郎好みの陰影礼賛的色調と、幾つかのエピソードを点描。
ストーリー性の希薄な構成のため、十分感情移入できない。
アメリカでの描写は緩慢過ぎて情緒性に乏しい。
逆に日本でのエピソードたちは、中村獅堂の悪の強さに消されて、
子役のいたいけな演技に救われて、かろうじて話が展開。
「泣く子と地頭には勝てぬ」ではないが、ばらけそう物語を、
繋ぎとめているのが、新しい生き方の女性像というよりも、
子供が生きるよすがは如何せんといった風情。
2度に渡る出産シーンの描写には、メッセージ性や思い入れというよりも、
思い込みに近い演出が気になった。


原作や主人公たちの生い立ちや背景、時代性、歴史という
予備知識なしに観るとかなり辛いものがある。
理解するよりも、感じることしかできない映画の類だ。
素で受け入れてもらうには、似たもの同士でないと。
興行的には失敗するだろう。
土曜の午後の時間帯なのに、10人も居なかった。


観客ぎっしりの授業参観と閑散とした午後の映画館。
さて、美味しいものを作って食べよう。
先週の週末、風邪で本調子では無かった分を取り戻そう。

イサム・ノグチ(上)――宿命の越境者 (講談社文庫)

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イサム・ノグチ〈下〉―宿命の越境者

イサム・ノグチ〈下〉―宿命の越境者