Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

昨日の研修

研修も様々な内容があって、専門領域に密接なものもあれば、
役職上の必要から受けるもの、企画するもの様々。
ピンからキリまでと言えば、幅広く網羅しているように聞こえるが、
実際、自分が下っ端の時はこういう研修制度があることさえ知らなかった。
「求めよ、さらば与えられん」という言葉があるが、
実際世の中はそう動いてはいない。


システムそのものが、下々に平等に研修制度や内容を知らせるようにはなっていない。
ごく一部の人間のところに伝達され、いつの間にか握り潰されていたり、
予算上面倒だと判断されれば書類ごと闇に葬られたり(ゴミ箱行き)。
形式的な全く目立たない掲示
実際日の目を見ることはないというのは珍しくない。
直接係わる者だけに回され、部署全体で見ることもない。
逆に回覧は誰かの所でストップしたまま。
コピーして渡すと即捨てられていたり、
広く知らしめよという「お達し」も空しい。


大体、紙ベースで配布は紙の無駄と、パソコンで閲覧。
その閲覧も、自由に見ることができるわけでもない、
管理職のみが把握、それさえもどこに振ればいいのか、
分からないまま闇雲に肩叩き同様、押し付けられるだけのものも。
ハード機材は宝の持ち腐れ、ソフトはバラバラ、
共通意識を高める、情報を共有するなんてことは夢のまた夢。


そんな中で職場で研修が続くと、うんざりして来ない人間も多い。
特に、ケーススタディを含むものになると、
自分のケースに関連・類似、何らかに特化した場合はともかく、
最初から全く関係ないと興味関心を示さない人間は多い。
類型化して物事を捉えるのではなく、
1回性にのみ全てが象徴されるとでも思っているのか。
そこに全てを求めているのか、自分の経験が全てだと過信しているのか、
えてして職場内研修は軽視されやすい。
外部研修にこそ、意味あるとでもいうのだろうか。
自腹を切ってまで学ぼうとする人間は少ないのに。
そういうわけで、企画担当する側としては神経をすり減らす割に、
達成感が少ない仕事が研修担当というものだ。

発達障害の人の就活ノート

発達障害の人の就活ノート



しかし、さすがに昨日は高機能発達障碍に関する内容。
従来の子供関連ばかりではなく、最近は大人に関しても無視できない問題。
集まったメンバーは真剣に聞いてくれていたのが嬉しい。
LD、AD/HD、広汎性発達障碍、精神遅滞
こういう分類も絶対的なものではなく重なりも多いのに、
更に自閉症スペクトラム障碍なんて言われた日にゃ、
どこまで把握していれば日々の業務に事足りるのだろうかと
何となく心細くもなろうというものだ。


今やかつてのように隔絶たる区別・差別を持って
人の障碍や発達を語ることは難しい。
臨床ケースになるかどうかは別として、
「全ての人間が発達障害を持つ」という視点から語ることが
良識とされる(要求される)時代にあって、
不穏当な発言や処遇は憚られるからだ。
しかし、様々な場面、現場にあって、
発達障害を持つ人間にとって、叱責は苦痛であり、受け止められない」
と言われても、誰がそれほどの、どの程度の障害を持つか
一目瞭然で分かるわけでもなく、日々対処に苦しむ。


一人一人を大切にする教育、個性を認める、受容するというが、
現場の混乱を収拾する術、必要以上に時間や人手が必要でも
人的な配慮もなく、金銭的な援助も得られない場合、
研修を受ければ受けるほど空しい思いに駆られる。
精神疾患には「愛着」の形成が必要と説明されるまでもなく、
基本中の基本だということは分かっている。
しかし、目の前の人間、送り込まれてくる多数に対して、
愛着形成の出来ていない発達障害を持つ人間をどう見分けろと?


彼ないし彼女が一瞬のうちに、集団を破壊してしまうことは、
また彼らの予測不能のそのような行動・振る舞い・言動に便乗・影響・助長するタイプの人間が多いのには目を覆うばかりだ。
目的を与えれば、存在価値を大切にすれば、
プラスのストロークを、絶対的な受容をというが、
私たちは精神科医でも専門的なカウンセラーでもない。


一対一の関係ばかりで世の中は成り立っているのではなく、
集団を集団として扱う場に勤務している場合、
一本釣りで丁寧に対処することが100%無理な場合、
問題が起きてしまってからでは遅いという前に、
時限爆弾のようなその人物は、既にそこに存在している。
誰が引き金を引くのか、親なのか、他人なのか、
その違いだけでどこにでも、その人間は存在している。


誰もが完璧ではないにしても、程度にもほどがあるという
未熟な自己象、体験の直接性(間接化の困難)、外傷体験。
何よりも自分には関係ないと距離を置くことで
無意識的にも意識的にも自分を守ろうとする
その本能的ともいえる行動が、混乱を招く。
自分がしたことを認めようともせず、
全て周囲のせいだとして自己の正当性を主張する。


研修では2次障碍を防ぐようにとうるさく言われる。
不適切な進路選択により自尊心が傷つき、
結果的に世間に恨みを抱いて生きていく、
反社会的行動を繰り返す人間になってしまうと。
そして、2次障碍は基本的に防げるのだから、
治療的関与を心がけるようにと求められる。

大人の発達障害―アスペルガー症候群、AD/HD、自閉症が楽になる本

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新書470発達障害 境界に立つ若者たち (平凡社新書)

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集団指導に従えない、切り捨てられていく人間が増えることを、
許さない時代になってきたのだと言われれば、
何か明るい方向に向かっているような気もする。
しかし、その方向で動ける専門家を作ることも、
人的な予算を割くことも、何も補助されてはいない。
殆ど一対一で過ごす、フォローする、
それは本人に対してだけではなく周囲の人間に対しても
同様に配慮が必要な場合も、切り捨てられる場合は多い。


医療の面では必須とされるアセスメントを保護者が拒否すれば、
教育環境を整えることは不可能だし、
医療と教育の両輪で障碍を支えるという概念も、
先立つものはお金、人的支援にも増して、経費の問題が横たわる。
研修を受けて様々なことを学べば学ぶほど、
専門知識や専門技術の獲得はペイ、
労働としての報酬を伴わないボランティアでの範囲を
押し広げることを要求されているような気がしてならない。


出来る人間が、知っている人間が、
時間の余裕のある人間がすればいいのだ、
そんな風に言われているような気がする。
だから、本当に必要な現場には、ペイを必要とする
正規の職員は配置されない。臨時採用も一時的な雇用対策。
病院でも学校でも登録制のボランティアスタッフを募集して、
短時間の必要最低限の研修を行い、
後は経験を積めといわんばかりの状態で
様々な業務・部署、担当に配置する。


本当にこれでいいのか。
必要な所に支援の輪を広げるというのは、こういうことなのか。
研修を受けながら、役に立つ話ではあるが現実は? 
心構えだけ備えておけという問題? 
備えあれば憂いなしでもあるまいに、
そんな風に皮肉に思ってしまう自分がいる。
前を向こうとしながらも、実際は後ろ向きになっている自分を見出す。
そんな昨日を振り返っている、今日。

発達障害チェックシートできました―がっこうのまいにちをゆらす・ずらす・つくる

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発達障害が引き起こす二次障害へのケアとサポート (ヒューマンケアブックス)

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