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荒唐無稽な『プリンセストヨトミ』

大阪生まれの大阪育ち。なのに大阪には馴染めない宮城県人2世。
歴史に関しては京都奈良神戸、どこにでも出歩けるこの大阪の位置関係、
関西が居住地、地元であることに関しては「恵まれている」とは思う。
こてこての生粋の関西人ではないという傍観者的な立ち位置。
少しばかり距離を置いて、(どこにも属さぬ一抹の寂しさはあれど)
物事を見ることが出来る。そんなアウトサイダーの感覚が気に入っている。


大阪マニアではないけれど 大阪をこよなく愛する人には、
うんちくが一杯詰まっているらしい『プリンセストヨトミ』。
どんな作品なのか少々興味を持った。原作を読まずに映画を見たがる家人の、
その感性に関しては少々覚束ない物を覚えるが。
だいたい、題名で人目を引くという常套手段。
太閤秀吉のイメージをかぶらせながらもプリンセス、というひっかけ。
その手の込んだこだわりが、鼻について嫌な私。
映画に付き合ったのは、あくまでもお付き合いの範疇の邦画。


大阪びいきの人間ではなくとも、歴史物は好き。SFだってファンタジーだって。
だから、どんな「仕上がり」になっているのか気にはなっていた。
何故プリンスではなくて、プリンセスなのか。
悲劇の豊臣家、悲劇のヒロイン淀君のためにプリンセスなのか。
単に物語のプロット上、男性よりも女性の方が、
ヒロインとして設定しやすいからか。
あれこれ思いを巡らしていた。忙しくて原作読む暇もなく土曜日。


それにしても、映画版『プリンセストヨトミ』。
何が嬉しくて、作中人物の男女を入れ替えた。
この手の入れ替えは好きではない。スポンサー側の意図、
使える役者のスケジュール上の問題、原作とは一線を画するための斬新さ狙い。
何でもこじつければ理由になるのかもしれないが、
単純に原作に匹敵する女性が見つからず、
男路線を強調して映画を作りたかった、それだけなのだろうか。


映画を見たその後、すぐに原作を読むと双方のイメージが、
頭の中で(やや軽めのガンガンと)こだまするような感じ。
大阪で生まれ育った物としては笑って受け止められる所と、
しょーもな過ぎて鬱陶しいとけちを付けるのもあほらしい所と。
こういう描き方をしてあほが信じたらどないするん、揉めるやん。
ちょっと抵抗があって気になった所など。


特に、原作の中では丁寧に扱われていた性同一性障害の問題。
映画では、あからさまないじめの対象として視覚に訴えてくるので、
大阪のいじめの仕方はああいう直截な「いてまえ、やったろうか」で、
十把一絡げに解釈されたら困るなあと正直ハラハラ。
もっとも、大阪を含めた関西弁は聞く人が聞けば「漫才のしゃべくり」、
半ばやくざの会話としか思えない「えげつなさ」らしいから、
最初からどうせ誤解されとるんやし、そのノリにのっとけみたいな制作態度だったのかも。


それにしても、片手落ち。男だけが大阪国を背負って立っているような、
原作では決してそんなふうにはなっていなかったのに。
大阪国を支える女性の在り方。そういう生き方考え方が全く剥落した映画は、
味気なく杜撰なことこの上ない。
そう、味付けの中途半端な関西風味の関東。そんな感じ。
複雑なプロットや伏線、細かい部分を描くと中だるみと取られる、
つまらないと即眠くなる輩にとって、見易いように作ったつもりか?


そぎ落としても作られる部分が、作品としての(出資&制作)価値がある物。
そういうふうに割り切られて商業ベースに載せられちゃ、仕方ありませんね。
そんな殺伐とした感じを和らげるために、男女の役柄は交替されたのだろうし、
で、天然系のミラクル発揮する綾瀬はるか。真面目に浮いてる役柄、岡田将生
「きりっとした前作の医師の雰囲気」を一変、だらっとした演技の堤真一
亡き父佐田啓二の亡霊を、いつまでも背負わされている中井貴一
そんな配役をベテラン陣と若手が取り巻く、仲良く頑張っている映画。


私にとっては、初、真城目学。印象としては・・・、
エンターティメントとしての文学、その中で人物を動かす雰囲気は、
海堂尊に似ている。切れる役柄を前面には出さない。そいつは狸親父。
本領を発揮するのは一歩ずれた、正論では動かない人間。
この作品ふうに言えば「嘘をつかず正直に生きている人間」となるか。
作られた物語を受け止めるしかない一観客としては、あれこれ言える立場にない。
提示された物をどのように受け止めればいいのか、心の準備が少々必要。

プリンセス・トヨトミ (文春文庫)

プリンセス・トヨトミ (文春文庫)


さて、これからは私の個人的な感想。
お気に召さぬことがあっても、決してお腹立ち下さるな。


私が知る限り、大阪人はこんなに組織だって隠し事できるほど、器用じゃない。
ブラックな大阪人は金に執着し、儲けにならないことに夢中になったりしない。
質実剛健なしぶちんの締まり屋の商家の流れを汲む人間は、
こういう途方もない計画に乗るほどの、はぐれ雲、好き者にはなれない。


そんな気がする。こういうことをしんねりと企てて、
「うちらだけの秘密どっせ」と共有できるのは、京都人じゃないか?
そんな違和感を感じながら、滑稽なほど真剣なストーリー展開を見る。
秀吉の「千成り瓢簞」は馬印として有名だが、それが襟章となると。
決起の合図が瓢簞というのも・・・。よくもまあ、あれだけの瓢簞を、
町のあちこちにぶら下げたなあという、構図の面白さと手間暇は感心したが、
父と子の対話をするのに地下の長い廊下も、死を覚悟した時の一子相伝も、
決まりを守るのが苦手な大阪人には向かない、「こだわり」のような気もした。


大阪が特別な存在でありたいと願う原作者の思い入れ、思い込み、妄想力、
その力が作品になって、更に映像化される。
そのこと自体が、ある意味羨ましい想像力の勝利。
でも、映像化されてしまったことで限定されてしまうけれど。
歴史は判官贔屓。ひいきの引き倒しで作られてしまった世界。
それが、地方都市ではなく大阪だから歴史パロディも許されるのかも。


でも、王子ではなく王女、守るべき存在が女性なのが笑える。
本人たちは何も知らずに守られて生きていく、
そんな世界を存在させようというのが笑える。
何も知らされず生きていく、見えない籠の鳥。
結束力を固めるための枠組み、脆いキーの存在。
脆いからこそ守り甲斐があるのか、欲得の皮の突っ張った、
商人の帝都、大阪らしからぬ損得勘定抜きのはったりの世界。
それが、『プリンセストヨトミ』のファンタジー


守りきれなかったもの、守り損なった物を引きずる、
ある意味罪滅ぼし、ある意味自己満足。
そんな庶民の在り方の「象徴」である、プリンセスの存在。
それは大阪を独立させろ、国会を開かせろとええかっこしい
権力欲に取り憑かれた人間を連想させて仕方ない。
目立てばひとときの脚光で満足する人間を寄せ集めて、行動するような、
そんな華やかさを政治の世界に求めたがるカリスマになろうとしている人間を。


物語は物語のまま、何もなかったかの如く終わって欲しい。
現実に「大阪国」独立の幻想で振り回されて、税金を無駄遣いされることこそ、
鬱陶しいことこの上ない。そんなことを考えていた上映中。
そして、読書後。
土曜の夜更け。
ちなみに私を誘った家人は見終わって、「あんまり面白くなかったな」ですと。
やれやれ。原作を読む気もしないですと。全く、もう。

豊臣家の人々 (中公文庫)

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