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X-MEN ファースト・ジェネレーション

娯楽映画、SF作品の中でも超能力を扱うという設定は、子ども時代からの憧れだ。
黄金期の少年漫画で育った世代としては、『サイボーグ009』の超能力者の赤ん坊、
001が科学者によって人為的に作られたことは周知。
もともと超能力やそれに相応するサイボーグの特殊能力は、
自然に人に備わっているわけではなく、権力志向の人間が不必要に開発、
悪用しようとするイメージがつきまとっている。
幻魔大戦』でも然り。超能力には地球を救うか滅ぼすかの二者択一を迫られるもの、
その瀬戸際に立たされ苦悩する特別な戦士のイメージがつきもの。



ファンタジーでもSFでも、人ならぬ力、人外の知・能力は
憧れであると同時に恐怖のでもあるのが当たり前。未知の力はコインの裏表の関係。
それを、X-MEN の世界では敵対する関係としてわかりやすく表現する。
今回はその中心人物の出会いと別れを描く物語。
話題の物語の「エピソード1」に当たるというわけ。
14日は千円という映画館の企画に久しぶりに参加。
平日の夜を、一気に仕事を片付けた反動の軽い鬱。
強烈なアクションよりも心理面で見るSF娯楽映画で吹き払った2時間。


幻魔大戦 (秋田文庫 5-39)

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人類を恐怖に陥れる敵対勢力、マグニートーの力。
それはナチのユダヤ人迫害から生まれたとする設定。
エリック(マグニートー)の人間に対する根本的な不信感。
復讐を選ぶ悲惨な生い立ち、人生観、人間観。
こんな能力をこういう場面で授かって人生を歩んだら、
愛よりも憎しみが勝る権力志向の人間、精神構造になってしまっても
仕方がないと観客に思わせる話の流れ、前置き。


その生い立ちこそは一見恵まれているようで実は孤独。
しかし、テレパシー能力で人の心を読み、それ故に人の心の弱さやさ、
美しさも醜さ、何もかも全て感じ取ることによって、
人よりも優れた理解力・包容力を持ち、
人間に対して寛容に協力的に平和に生きようとするチャールズ(プロフェッサー)。
なのに、身近な友達の心を覗かなかったばかりに、レイブンの恋心に気付かず、
また、知っていたかもしれなくても応えようとはしない、その姿勢が、
少々上から目線の知的な冷静さを加えて、やれやれなお坊ちゃん的魅力にもなっている。
その雰囲気を『ナルニア国物語』のタムナスさん役こと、
ジェームズ・マカヴォイはなかなか上手く演じていた。


変幻自在に姿形を変えられるものの、青い肌と赤い髪、金色に輝く瞳、
本来の姿は人間の女性らしい美しさから程遠いことに傷つき、
強いコンプレックスに持っているレイブン(ミスティーク)。
人とは異なる能力を持つことが幸せには直結しない、
そのことをあげつらってとまではいかないが、観客に訴える設定。
思春期、ただでさえ自分を過小・過大評価する年頃。
友愛と憎悪、世界平和と政治権力、共存と支配、テレパシーとサイコキネシス
対立する概念の中に、それぞれの個性、人生観、未来観が散りばめられ、
ファンタジックな超能力戦以上に、なかなか見応えのある内容だった。


特に印象的なのは、ホロコーストユダヤ人迫害の歴史を取り上げて、
未だにその葛藤の傷跡をなぞるような設定は見ていて辛かった。
アウシュビッツイスラエルも訪れたことのある人間としては、
幾世代にも渡って語り継がれていくのものが平和への願いではなく、
恨みつらみでしかないという結末しか得られないのなら、
何のために祈りを捧げ巡礼したのか暗澹たる気持ちになるのだが、
実際映画の中では何とも救い難い危機的な状況、世界が展開。
ネオ・ホロコースト。新たなる迫害。


いつの世にも権力を望む人間・国家は存在し、
除し難い、計り知れぬ存在、思うように扱えぬものに対して不当な扱いをする。
旧人類が進化した人間である超能力者に淘汰される側でしかないのなら・・・。
地球幼年期の終わり』のような進化形を望むのか、それとも?
一方的に淘汰される側だとして抵抗する怯えた存在は、
先制攻撃を掛けるべく超能力者集団をミサイル攻撃する。


次に印象的だったのは、超能力者の中で生存適応能力に優れた若者が黒人で、
仲間を救うために真っ先に犠牲になって死んでいったこと。
この辺りにも人種差別的な意図が見え隠れしているようで気になって仕方がない。
あれこれ意識しだしたら、映画も物語も『ちび黒サンボ』論争の二の舞になってしまい、
純粋に楽しむことなんて出来ないのだろうが。

X-Men: First Class

X-Men: First Class

超能力、不老不死、傷つかない体、再生する肉体、
「考える葦」ともてはやされたとしても、か弱い存在。
メメント・モリ」の呪縛から解放されることの無い人間。
それ故に自分にない能力に永遠に憧れ続ける存在、ただの人間。
そういう凡人が夢見る憧れが、映画や物語の中では
このように描かれるのだということに注目しなければならないのかもしれない。
普通ではないこと、異形であること。異能者であること。
自分は理解されない、受け入れられない存在。異端者。アウトロー


同じ力、能力を持つ人間だけが結びつき、存在を許されるべき。
他は排除。消されるのを待つまでもなく、他を排除して生き延びる。
これが生存競争の構図なのだろうか。自然界の環境バランスに関係なく。
どの構図を持って共存を図るのか。
子孫繁栄の平和な未来人間関係を築いていくか。
映画という架空の物語の中にリアリティを持って再現された、
冷戦時代の政治への皮肉は決して現在も無縁というわけではない。
今もまた、国を変え場所を変え何度も似たようなことが繰り返され、
人間は無用の争いに巻き込まれ、時代に翻弄される綱渡りを続けている。
寓話の中に込められた警告を無視して現実が存在する危うさを、
改めて意識させられ、思い知らされる。


映画『X-MEN』のシリーズは、メッセージ性を持たせるために、
問題提起を含めて様々な手法を採るが、いずれにせよどんな映画、
どんな作品、どんなストーリーにも核となるエピソードが絡み合う。
個人的な感情の交流は歴史的なものの前には圧倒され、
権力に押し潰されていくしかないのならば、
世代を超えて受け継がなければならないことは、何だというのか。
単に、人間であり続けることの切なさ虚しさに帰結させてはならないだろう。
この後の作品、シリーズの続編をどのように持っていくのだろうか。
様々な含みを持たせて終わるこの作品は、まさに歩く力を失ったプロフェッサーにも似ている。
next generation に何匹目の泥鰌を狙わせるつもりだろう、制作者側は。


楽しみながらも憂鬱の度合いは軽くなったとは言えない映画、
X-MEN first generation』の夜。

x-men: first class

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