Festina Lente2

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故きを温ねて

息抜き読書ばかりで詮無いのだが、忙しさの余り頭を空白にしたい時、
気鬱になりがちな仕事を忘れるためには、軽い読書に限る。
図書館で見つけてきたこの本は、最初娘の冷たい視線にさらされたが、
最終的には笑い転げてお気に入りとなった。

じーばーそだち

じーばーそだち


私は祖父母と暮らしたことはないが、娘は違う。
私の両親を知っている。
物心ついてあれこれ分別が付いてからは、少々認知に問題が出てきた
矍鑠とした祖母の姿やイメージが薄れてしまって、残念だが、
漫画の中のじじばばは、両親を凌ぐ勢いで活躍しまくっている。
そこまで行かなくても、仕事の関係で別居している両親、
食事の時間にも帰ってこない親、泊まりがけで出張に行ってしまう親、
必然的に「じじばば」が出張ってきて、望む望まぬに関わらず、
娘自身も「じーばーそだち」である部分は大きかろう。


というよりも、かなり高齢出産のかーちゃんから生まれたからには、
歴然とした年齢差が殆どの親子より大きい故に、
文化的認知的背景、ものの考え方・感性が、「若くない」のは致し方ない。
なので、両親に育てられていても、間接的に「じーばーそだち」、
或いは準「じーばーそだち」と言っても過言ではない状況。


周囲とのずれは、娘が持って生まれたずれではなく、
この環境で生まれ育ったからに他ならないと思う時が多々ある。
他所では気にしないことでも、うちでは気になる事柄。
逆に他所では気にすることも、うちではどうってこと無い。
そういうギャップを抱えながら、娘は自分の道を切り開いていかねばならない。
結構リアルに生(ナマ)で「じーばーそだち」的な要素が一杯なのに、
改めて気付かされた次第。


「故きを温ねて新しきを知る」ほどたいそうでは無いけれど、
古いもの、古めかしいもの、前時代的な感覚、昭和ティストで育っている、
これは否めない事実。聴く音楽、読む本、インテリアから何から何まで、
両親と祖父母の価値観を通して世界を垣間見てきたのだから、
無意識の中にすり込まれている感覚や感性そのものが、
どことなく「イマドキノコ」とずれていても仕方がない。
それは覚悟の上の子育てだった。


娘がそれなりにサバイバルして、両親や祖父母が持たない情報を持ってくる、
それはある意味、成長であり、防衛本能のなせる技。
娘は娘の生まれた時代で生存競争を賭けて戦っている訳なので、
親と同じやり方で世渡りが出来るはずもなく・・・。
そんな鬱屈した側面からではなく、ギャグとお笑いの、
それも関西風味ではなく関東テイスト、江戸っ子の下町世界を背景に、
「じーばーそだち」は展開する。実に面白い。ほろ苦いユーモア満載。
負けず嫌いの、世話したがりの、ほのぼのとした世界。

医療倫理の系譜―患者を思いやる先人の知恵

医療倫理の系譜―患者を思いやる先人の知恵


娘にそんな本を図書館から借りてきているかーちゃんもかーちゃんだが、
こちらはただ今、先日紹介したこの本に入れ込んでいる。

絶滅寸前季語辞典 (ちくま文庫)

絶滅寸前季語辞典 (ちくま文庫)


自分でもわかるものもあるが、何しろ戦後世代、オリンピックが幼稚園、
万国博が小学校、そんな世代の人間が耳にしていても忘れている言葉、
字面のみ知っている言葉、初めて目にするような言葉、
相違言葉が沢山あって、これが「季語」だというならば、
今の私たちはどれほど言葉の上でも季節を失っているのだろうか、
そんなふうに考えざるを得ない。


若者に「季節の風情がわからない」だの、
昔風に「もののあわれがわからない」だの、言うことは出来ない。
きっといつの時代にも、「若者は・・・」と上の世代は苦々しく思い、
説教臭い抹香臭い自分を気取られないように口をつむり、
物わかりのよさげな顔をしながらも、本当は向かっ腹を立て、
大人の常識と理性で「敢えて許して」来たのだろう。
そんな乳母日傘の元に育ってきたので、私たちの世代はもの知らず、
知らないことが多過ぎて、この年になってあたふたするのかも知れない。


赤尾の豆単の最初に「諦める」の意味のabandon〈観念する〉があって、
のっけから「こんなに沢山覚えられないだろ」と辞書に宣言されたような、
そんな気持ちになったのを思い出す、一番最初は「藍微塵」。
わすれな草などと言わない所が面白いのだろう。
音だけ聞くと「アイミジン」頭の中では「愛微塵」と変換される。
大切なものほどあっという間に粉々になっていく、そんなイメージ。
のっけから豆単のように暗い。


次は「愛林日」と来る。これが緑の週間だなんて・・・。
関西に住んでいると「アイリン」という語感は、別のものを連想させる。
俳句に付きものの季語は、文学だから目から味わうのだろうが、
俳句は口に出して吟じなければ、和歌同様、面白みがない。
その時に頭の中に感じが出てくればいいが、そうはどっこい、
問屋が卸さない。脳内漢字変換が出来ない所が哀しい。


仕事柄、言葉は沢山知っているつもりだったが、わからない。
知らない言葉のオンパレードに戸惑うやら、ちょっと嬉しいやら。
最もこの頃は知らない言葉に近づくことを恐れて、辞書も引かなくなった。
知っている言葉だけで勝負する、ずるさばかりが出てきてしまった。
書き順を忘れた感じ、読みを、音訓いずれも出てこない漢字、熟語。
そういうものが持つ背景、歴史、言葉の持つ広がりの世界に分け入る楽しみを、
いつから失ってしまったのか、自由な時間や情熱と共に、
いつから怠惰になってしまったのか、知る喜びを忘れて。


蘊蓄の宝庫のようなこの辞典の中に、その言葉が息づいていた時代、
今よりもほんの少しだけ前だった時代を思う。
自分が生まれた頃の昭和や、それ以前、両親の青春時代、
戦前、それよりもずっと前・・・。
祖父母は方言はともかく、どんな言葉を使って生活していたのだろう。


古いが故に目にとまらず、その斬新さばかりが際立つ、
昔使われていた言葉。そんな言葉をあちらこちらに見つけながら、
懐かしい古い景色を思い起こす、これも一つの郷愁ではある。
なので、我が家に住み着く野良猫たちを観ると、
確かに「竈猫」は死語だなと思い、納得し、
「色なき風」が秋だと知って驚く。


目にはさやかに見えねども・・・。
暦の上で秋になり1週間。
私の頭は涼しくなっているか、冷静に物事を眺めているか、
仕事はサクサクとこなせているか・・・。

「先のばしぐせ」はこうして直す

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大事なことは先のばしにしなさいー迷ってばかりのあなたがうまくいく32の法則ー

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