Festina Lente2

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立ち止まり、ふと思う研修日

全面的に1から10まで自分がお膳立てして研修を企画する事から離れ、
この5年間で一番楽をさせてもらった研修になったかもしれない、今日。
しかし、どんな仕事でもそうだが、
自分が任されたのだからと何もかもしてしまうと、誰も何も学ばない。
職場というものは恐ろしいもので、「やる人がやるでしょう」という
そんな雰囲気に流されてしまう。物事の形が付いてしまう。
だから、講師を選定を他の人にお願いし、内容もお任せにし、
大きな枠だけを用意して、後はご随意にとしてみた。


よそさまではどんなふうに研修をしているのか、わからない。
最先端を走る者、それなりに自分で学んできた者、
企画する側はあれもこれも限られた時間で伝えたい、
教えたい、知ってもらいたい、できれば理解してもらいたいと、
盛り沢山に用意しがちで、えてして受講者側からは批判を浴びる。
話す立場、話を聞かせる立場、話さねばならぬ立場、
話を聞く立場、聞かねばならない立場、様々な思いが交錯する。


職場内の研修は無料で受けることが出来る。
外部の研修は自腹を切り、自由な時間を削り、家庭を犠牲にして、
家族の非難を感じ取りながらも、出向かなくてはならない。
そういう思いをせずに動ける若手、
それこそ舞台裏では何があるのか知らず、
目の前のことだけに精一杯というお馬鹿さ加減を真剣さと履き違え、
「のほほんと」としていた頃、そうではない人もいたのだ。
先見の明を持つ、未来へのビジョンを持つ人々は、
人に知られず努力・研鑽を積み重ねていたのだろう。


遅れてきた人間、遅く目覚めた人間としては(本当に目覚めているのか?)
職務の一貫として、遅々としながらも環境整備の立場に立たされたのだだが、
この御役目も今年で終わりだろうと、手放す準備をしている。
失敗しようが成功しようが、順送りに仕事をせねば、
適材適所だからと固定化した役割分担では人も組織も伸びぬ。
自分ができる事をやってきた、それだけでも駄目で、
自分が出来ないことでも出来るようになろうとしてやってきた、
その自分なりの軌跡を振り返って、反省して、また別の分野に取り組みたい。


というか、もともとの専門分野をおろそかにしたくはない。
ある程度できる仕事だから、手を抜いてもいいだろうと、
さばを読んでこなす事をしろと周囲から言われることもあるが、
やりたいこと、試してみたいこと、まだまだ山ほどある。
何故、仕事の中に、もっとも自分が専門とすることの中に、
その楽しみを見出せないのか、それこそ職務怠慢であり、
同じところをグルグルを回っているだけではないのか。


ただ回るのではなく、緩やかで螺旋状に上っていけるように、
俯瞰して物事を大局から見られるように、
新しい理論だけに振りまわせるのではなく、
古きを温めて新しきを知ることが出来るように、今こそ心がけねばならぬ。
研修に限らずなんでもそうなのだが、
受身で学ぶ人間は、過程や準備の何たるかを知ろうとしない。
自分の立場や年齢では関係ないと思っている。
その時が来ればと安穏と構えているが、それでは遅いのだ。

教育研修ファシリテーター

教育研修ファシリテーター

はじめて語られる企画の「虎の巻」

はじめて語られる企画の「虎の巻」

遙か年配の、とうの昔に引退してしまった先輩達の思いを知ることは出来ない。
苦々しい思いで、溜息を付きながらあれこれ思い巡らして、
どうしようもない奴だと思いながらも、自分が被らざるを得ないと知りながらも、
我慢してくれていたことがどれほどあったのだろうと、頭が下がるばかり。
見守られ、まかされ、やらせてもらってきた日々があったと思うのだが、
その当時は「胸を借りている」などとは思いもよらず、
自力で齷齪頑張っていたと思い込んでいた、あの若い頃。


親の気持ちを、子を持ち、子育てに悩み、仕事との両立の中で「虻蜂取らず」。
しっぺ返しを喰らい、あたふたしながら、ある程度の所まで来て、
やっと思い至ることが出来るように、
職場でも世代間の差、年齢差、格差、能力差以外の様々な部分で、
できること、出来ないこと、分担可能なこと、適材適所で嵌め込むしかないこと、
多少の犠牲は付き物で育てねばならないこと、引継ぎして任せるしかないこと、
自分と同じように出来なくても、腹をくくって、
違うやり方で新しい側面を切り開くだろう事を期待して、
何もかも手放さなければならない、そういう年齢になって初めて、
先輩達がどのような思いで仕事を続けてきたのか、思い至るようになった。


30年も仕事を続けてきて、やっと見えてくることがある。
この「やっと」を教えてくれたのは、望まずして引き受けた、
押し付けられた役職、役割、隙間仕事のお陰なのだが。
自分は何と晩生の人間なんだろうと、自分でも自分に歯がゆいばかり。
「やっと」ではなく、必要不可欠と若い頃から何でも引き受け、
私心・野心の有無はともかく、高みに登ろうと登るまいと、
仕事、かくあるべしという心構え・気構えが、
「なかよしこよし」の惰性で流されない組織を作り、人を磨き、
最終的には人を育てていくのだろうと・・・思えるようになった時、
自分自身は、燃え尽きたわけではないが、
諦念と定年が折り重なってまとわり付く年齢になろうとしている。


講師に紹介された人間が、自分より年したであることが、
嬉しくもあり哀しくもあり、世代交代をしみじみ感じながら、
職場というものと距離を置こうとし始めている。
今の職場、仕事内容、人間関係に線を引こうをし始めている自分を感じる。
いや、それはもうずっと前からだったのだけれど、今年は特に。


転勤したい、転勤するべき、転勤しなくてはならない立場の自分を、
あらゆるダメージから守っていたい、引き離しておきたい、
そんな甘えと、甘えにも似た諦めと、
若手に対する醒めた眼差しを持って、私は先輩の辿った道を知ろうとしている。
知りたいと願うようになっている。
もっとも、自分の思うような転勤などありえないのは、
百も承知のこの世界なのだが。

新版 問題解決プロフェッショナル―思考と技術

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問題解決のためのファンクショナル・アプローチ入門

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