Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

落ちこぼれつつ

時々、仕事に関係ない本や漫画を読みながら、
異世界に遊ぶ自分を哀しく思う時が増えてきた。
自分を生かす活力にする場であれば、こういう非現実と現実との間の往還は、
プラスにも働くのだろうが、実際はどうか。
今の自分にとってはと、いぶかしく思ってしまう。


生きていられる時間が、かくもうんざりとした消耗戦の仕事で削られ、
モチベーションよりも、割り切りや諦めを強いられる毎日だと、
「これはそういうものなのだ」と、納得・諦観することを強いられ、
それが大人としてのものの見方、仕事としてのあり方のようにとられ、
日々を追うことに、これが自分の毎日の積み重ねなのかと思うことに、
本当に疲れてしまう。


それぞれが自分のことだけを考えて生きているのだが、
すれ違いざまに、こんにちはでもさようならでもなく、
「この場にいることが一分でも耐えられない」かのように散っていく、
そんなただ中にあって、交通整理をしているような毎日を、
どうして楽しく思えたりするだろうか。
自分が役に立っているのではなくて、相手の都合のいい時に、
利用されているだけではないかと思う時、思ってしまう時、
思わされるような状況が続く時、仕事は本当に辛い。


正解がない、目に見える形で続いたり残ったりするものではない。
そういう仕事への断続的な怒りや諦めを日々降り積もらせるものが、
責任や立場では変わってくる。
だから、今年は特に、「埋もれていく自分」を感じる。


冬の日差しの中に春を感じることはあっても、
それが現実の中での時間の流れを意味するだけで、
実生活の中での「春」や「変化」「転機」ではないと思う瞬間。
自分だけが氷の欠片を目に入れたままの、フリーズした心の持ち主、
北の国にとらわれているような、そんな錯覚に陥る。


雪かきも雪下ろしもする必要のない場所で安穏と暮らし、
屋根のある家に住み、食べ物に困るはずもない生活をしながらも、
あと何日、あと何ヶ月と日々を数える自分が情けなく笑える年度末。
乗り切っていこう、あと少し頑張ろうと理性は言葉を紡ぐけれど、
体は正直で、ちっとも動いてはくれない。


過覚醒の時期はとうに過ぎて、帰宅と同時に倒れて眠ってしまいたくなる。
体力は気力と、気力は体力と裏表の関係。
見るもの聞くものに嫌気が差し、うんざりし、なかなか心を切り替えられない、
自分とは関係ない部分で状況が動いているのだからと、割り切れない。
何故、この場に居合わせ、処理を続けなければならないのだろうと、
何年も続けていたことに、今更のように打ちのめされる。


人は、仕事を大切にして生活を守らなければならないのだろうけれど、
仕事のために犠牲にした家族との時間のこと、
家族との関係を思うと、この年度末は心が痛い。
毎年のようにそんな気持ちに襲われるけれど、今年は特に心が痛い。
痛みがどんどん強くなっていくような、そんな気持ちにさせられる日々。
やるせなく、ただやるせなく。

悲しみの効用(祥伝社新書愛蔵版)

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「昨日の疲れ」が抜けなくなったら読む本

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