Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

疲弊の極みの打ち上げで

やっと終わった、突っ込み1年間の仕事といえばいいのか、
3年間の長期プロジェクトといえばいいのか、とりあえず、
するべきことはしたし、出来ることはしたと思う。
自分の力不足というよりも、気力が萎える後半だったが、
とりあえずやれるだけのことはやった。
自分がいつでもはめ込み要員なのは承知していたが、
自分が手がけてきた仕事の一端を、どこまで理解されていたか、
そして理解されたいと願ってきたか、
それが不遜なことなのか、思い上がりなのか、
正当な自負としての反映なのか、今となってはわからない。
ただただ、ひたすら解放されて、何もかも終わりにしたいだけ。
そんな心境だった。


必要とされる能力があることは喜ばしい。
実績を作ることが出来る、結果を出せることは喜ばしい。
されど、やれる仕事があるから、できるから、こなせるからと
どんどん回されて気が付くと、頼られているといえば頼られている、
丸投げされているといえばそういう時も多々あり、
結局は都合よく使いまわされているだけで、時間た経ち、
あれこれ支えている間に、自分は疲れて切ってしまっている。
支えたり、支えられたりのやり取りがあって然りなのだけれど、
必要とされてその部署へより深く入り込めば入り込むほど、
よそ者としての枠や壁を意識して生活しなければならない。


「出来ない、知らない、わからない」と言う事を許されない今、
ひたすら降り注ぐものを受け入れながら仕事をしてきた。
取捨選択というが、それが許されるならば苦労はしない。
仕事はそんな奇麗事ではない。
自分の主義主張を貫けば貫いたである活路が見出されるのかもしれないが、
組織の中でそれが許されるほどの突出した個性を持っているわけでもない。
必要とされるうちがは中と思いつつ、卑屈になっていく、
そんな自分に嫌気が差しながら、義務感ばかりが大きくなっていく。


悟りを開いた聖人のように淡々と生きることも出来ず、
詩人のように「ホメラレモセズ クニモサレズ」生きていく、
そういうことは出来ない自分。
それなりに認められたい、わかってもらいたい、
受け入れられたい、存在価値を認められたい、
何よりも自己肯定間というものを、幾つになっても持ち続けている、
青臭い思春期の青少年でなくても、幾つになっても齷齪としている、
そういう自分自身から距離を起きたいと思った、この半年間。


プロジェクトの後半、残り。私は疲れ果てた。
どんどん異動で去っていく仲間、同僚、先輩、上司。
その中にあって、メンバーが固定化された中に放り込まれて、
ベストを尽くそうと思ったけれど、尽くしたとは思ったけれど、
徒労感ばかりが広がっていくのをとどめることは出来ず。
結局、去っていった人間を懐かしむ声ばかりが突き刺さる宴会、
今ここにいたこと、今までここで踏ん張ってきたこと、
何十にも枷を負わされたことへのねぎらいもなく、
夜が更けていったことへの、そして、
いつかはねぎらわれるかもしれないと、
報われるかもしれない、理解されるかもしれないと、
甘い期待を背負って仕事を続けてきた自分への馬鹿さ加減に、
心底うんざりする一日となった。


写真も取らなかった。優しくもなれなかった。
自分がやってきたことを素直に認める気持ちにもなれなかった。
自分で自分の足跡を暖かく見つめることが出来ない者が、
どうして周囲から認められるだろうか。馬鹿げている。
本当に馬鹿げている夜。
1次会だけで帰ればよかった。
「付き合い」だからと、律儀に打ち上げに来ることもなかった。
懐かしい顔ぶれも、それはこの職場を後にすることが出来た人々の顔。


ここを去ることが出来ずに死守してきた人間、
ここを去ることが出来るかどうかわからずに、疲れ切っている人間にとって、
ささやかな宴席も、場違いな場所に引き出された間抜けな人間のような気がしてならない。
善意は悪意の裏返しあるように、偶然は準備された計画のように、
素直に物事を受け止める力を枯渇させて、ただただ苛立ちと幻滅ばかり、
クローズアップさせてしまう、自分の心的状況の不健全さ。


終わった。本当に解放されたかどうかはわからないけれど、
少なくとも、この徒労からしばらくは離れられる?
仕事はまだまだあるけれど、果たさなければならない仕事はあるけれど。
何もしたくない、何も見たくない、誰にも会いたくない。
夜はもっと深くあって欲しい。夜はもっと凍て込んで欲しい。
そう思いながら歩く、深夜。

虚無への供物 (講談社文庫)

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この社会の歪みについて―自閉する青年、疲弊する大人

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