Festina Lente2

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大人の本気

そんな言葉をキーワードにして、物事を語ってもいいのかな。
大人の本気。何をどう切り取って大人の本気なのか。
一見当たり前に見える毎日の生活を維持することさえも、
本気でなければ続かない側面が沢山ある。
日々(にちにち)のことをこなすのは、流されることではない。
大人の本気。節目となりがちな行事やここ一番だけで、
成功した物事・出来事の華々しい側面だけを見て、
語られて欲しい言葉ではないのだが、・・・私としては。

             

夢を語る。それは小さな子供でもできること。
夢を語る。それは、叶うかもしれないという希望的観測の元に、
ファンタジーを語ることなのか。違う。
夢を語る。夢が無ければ生きていけないのか。
夢が無いことが現実と向かい合うことなのか。
夢の有る無しにこだわる前に、何かが違う。


夢があるから現実を見据えることができる。
目標は、そのための一里塚に過ぎない。
少々冷たい言い方をするならば、
自分を必要以上に壊したり傷つけたりすることなく、
(自己犠牲のパフォーマンスに浸ることなく)
何かしらに対峙するための有効な対処・処理の仕方・手段。
それが夢を叶えるための目標。
だから、実現可能で、手を伸ばせば届くところにある。
伸ばすか伸ばさないかは、伸ばそうとしているかは、その人次第。
だから、一つ達成すると、次の目標は? となる。


段取りをつけ、仕事をこなしながら毎日を過ごす。
夢が無い生活だなあと感じたりはすることはあるけれど、
日常生活が維持できる喜びを胸に刻む日々、
まったく夢が無いわけではない。ささやかな出来事が
結局は毎日見過ごしている「大きなもの」を支えている。


夢。理想。憧れ。
すぐには叶わないこと。手が届きにくいもの。
そうなのか? 本当にそうなのだろうか。
大きくて遠大で立派なものでなければ、夢には正当性が無いのか?
大人の本気は「見果てぬ夢 impossible dream」ではなく、
実現可能な計画を立て、遂行すること。
自明のことだ。
あからさまに無駄な投資をしていたら、生活が立ち行かない。
肉体的にも精神的にも崩壊してしまう。

引き寄せの法則 エイブラハムとの対話 (引き寄せの法則シリーズ)

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雨がふってもよろこぼう!~人生が良い方向に向かう!心を鍛える25の習慣~

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「板子一枚、その下は地獄でさぁ」の船乗りではないけれど、
日常生活にぱっくりと開く落とし穴を知っているからこそ、
その恐怖に必要以上に怯えることなく、その恐怖を抱えながら
なおかつ、毎日を泣いたり笑ったり生活できる。
日常生活の維持可能、順調なことが、私にとっては一つの夢のように感じる。


酸素テントの中で見つめる横顔、血液検査に一喜一憂することなく、
飲んだり食べたりできる。どこかに自分の足で歩いていける。
いつ来るかわからない期限とはいえ、ありがたい医学の進歩のお陰で、
無罪放免とまでは行かないまでも、慢性管理の名の下に、
普通に生活できる。社会復帰できる。そんな貴方がいる。
一見、当たり前に見える喜怒哀楽激しい毎日の生活そのものが、
一つの夢のようだ。


もしかしたら、失くした命が見たくても見られなかった夢。
パラレルワールドの向こうでは、たった独りぼっちになってしまった
そんな私がいるのではないか。
親を亡くしてしまった娘がいるのではないか。
そんな現実は、いつ起こってもおかしくない。
そんな風に感じながら生活していると、毎日は夢のようだ。

プレゼントモーメント―精神療法と日常生活における現在の瞬間

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今日の研修で、「夢と目標の違い」を聞きながら、
ぼんやりと私は違うことを考え続ける。
今日ここで語られていることは、毎日の生活の中での家事に似ている。
食事の時間までに、買い物を済ませ料理をしなければならない。
メニューは何か、お買い得と、冷蔵庫の中身と、自分のレパートリーと
頭の中は意識せずともフル回転だし、当たり前の作業。
買い物に出かけたければ、その時間を確保することから。
どこから・いつ・どんなふうに捻出するかという具体的なこと。
仕事の段取りに行き着く。


食べたからには片付けねばならぬ。洗って拭いてしまう場所。
残務処理。後片付け、再利用、取り置き。
家事の些細なことは、仕事の段取りに似て無意識に組み込まれる。
できる範囲の買い物、食事、献立、後片付け、時間配分。
経済と時間と労力の配分に見合わなければ、食事一つで家事は破綻する。
生活そのものを他人任せのコンビにだけに頼って、切り盛りするわけには行かない。
仕事だけして、全てが終わっているような、そんな顔はできない。


頑張ってもできないこと、頑張ればできること。
そんな判断は即時で付けなければならない。というよりも、
意識に上る以前でこなされる場合も多い。
初めてしなければならない、久しぶりだ、特別な行事だ、
ということになると、段取りに手間取ったり誤算が生じる。
突発事項、飛び入り仕事も多い。


だから、空き時間を作っておいて、何かあった時に放り込める余裕も要る。
一見自転車操業、家内制手工業の古めかしさにも見えるが、
システム手帳化しすぎると、隙間時間が無くなって身動きが取れなくなる。
ながら仕事でこなさなければならないことも、沢山ある。
(顔を洗ったついでに、洗面所のガラスを拭くように)
小さな目標は、小さな予定をクリアすることに似ている。
結果的にはそれが大きな目標や予定をこなすことに繋がる。
小さな達成感を日々積む経験なしに、
大きな達成感を一気に得ることは難しい。


夢は日常生活の中で語れないものではないし、
日常生活から乖離するものでもない。
夢は語られる前に、日々の生活の中に当たり前に存在する。
夢は叶う。いや、叶わないかもしれない。
その前に、行動を起こすか、起こさないかにかかわる。
夢を叶える為に、どのような日常生活を、仕事を、人間関係を持っているか。
何もかも特別なことから始めるわけではない。
すべては日常から始まる。


目標達成、イコール夢が叶うことではない。
小さな目標は数限りなくあって、その目標がこなせたとしても、
夢に近づいただけで、叶うとは限らない。
それでも、その夢をあきらめない。少しでも近づくならば、
その努力を怠らない、忘れない。
惰性やあきらめの中に自分を埋没させて、単なる歯車として、
流されない。それが、私の「「大人の本気」の在り方の一つだ。


苦しい思いをしたから叶うとか、頑張ればどうにかなるとか、
きっと誰かが見ていてくれる、とか、スポ根ものや(こんな表現自体も懐かしい)
青春ドラマのお約束を単純に頭から信じられるほど、
毎日の生活は見た目派手で、劇的でドラマチックなものではない。
それだからこそ、敢えて日常の平安が維持されることが、
私にとっては夢の実現の一つ、でもある。
日々移ろいやすい日常、「メメント・モリ」のメッセージを
常にエコーで聞きながら、「セ・ラ・ヴィ」であり続けること。
夢の在り方は人それぞれ。夢の在りようは様々だ。


安易に葛藤から逃れる為に、カタルシスを求めたりはしない。
モチベーションの高低にかまけて放り出せない日常生活がある。
生活の基本を守りつつ、自分の専門のテリトリーを固める。
今の自分にできることは、攻め一方でも守り一方でもない。
この微妙なバランスを取り続けていくことに、倦み疲れず
日々の中に埋没せず、「意識」を保ち続けていくことなのだ。
マチュアの学びだ、目標を見据える前に抵抗に屈してはいないかと
誰かに責められているような気がしないでもないが。


「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの
俵 万智がかつて詠んだ歌だったが。
今まではファンタジーを生きてきた、大人の本気じゃなかったのと
みんなの前で言ってもいいの?
そんな気持ちで人の話を聞きながら、今日の研修が始まる。
でも、カミングアウトの仕方、自己開示のあり方もそれぞれ。
そんなことを思いながら、私は私の日常を生きる。
学ぶこと、聞くことが私の仕事、私の専門の糧である限り。

ザ・マスター・キー

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「続ける」技術

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