Festina Lente2

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痛みへの雑感

仕事の関係で「痛み」に関するちょっとした短文を読んだ。
よくある内容。現代は無痛社会。無痛文明。痛みや苦しみを逃れ、
前もって痛みを防ぎ、避ける傾向にあると。
科学技術や医療技術は無痛社会を促進する最たるものだと。
確かにそういう見方が当てはまることは多い。
苦労・苦痛・苦心・心痛・激痛・病苦、無いに越したことはないが。
痛みもピンからキリまで様々だから、100%無いというのも困る。
「苦あれば楽あり」の、「苦」にも様々な側面がある。


その短文のポイントは、無痛文明には喜びが無い。
快楽・便利・簡単・安全、そういうものは当たり前で、
次々に新しい刺激を望み、満足することが出来なくなるのではないか。
本質的な達成感・喜びを得ることが出来なくなってきているのではないか。
そんな内容だったように思う。長い文章の一部分だけを、
斜めに読んだだけだが。


痛みを感じない人間は、身体的にも安全を確保し難い。
心理的にも、他人と交わることも難しかろう。
身体的な痛みは具体的でわかりやすく、
心理的な痛みは抽象的でわかりにくいと言われるが、本当だろうか?
個人差が大きすぎる、痛み。
大げさすぎる、神経質だ、気にしすぎる、弱い、甘えている。
色んな批判を受ける心身の痛み。


痛みの問題は軽々に扱うことは出来ない。
麻酔が、時間が忘れさせてくれると言うけれど、
体に慢性痛が残るように、
心にトラウマがフラッシュバックがあるように、
痛みは心身を蝕む。しかし痛みに焦点を当てる時、
悪い所をあっさり除去すれば元通りになるかのような、
安易な発想を強いられるのは何故だろう。

生命学をひらく 自分と向きあう「いのち」の思想

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無痛文明論

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今日の『ためしてガッテン』は慢性痛についてのはず。
見られなかったけれど、多分痛みの刺激がなくなっても、
脳は痛い痛いを認知するって話だろうな。
体の痛みが慢性的になれば、心の痛みも生じる、つのる。
自分の不全感が自分の存在自体の不全感、不安感、不快感になり、
痛みごと何もかも消してしまいたくなる、鬱がやって来る。


痛みが人の心や体を強くし、鍛え、次の段階、次のステップ、
用意周到に張り巡らされた体の防御段階を導くこともある。
しかし、必要以上の痛み、予想以上の苦痛、耐えられない激痛、
そういうものは、他人の物差しで計れないものも多い。
体の痛みを痛みが持続している病として捉えることが、難しい。
体の痛みが心に影響を及ぼしているという事を、
「誰もが色んな痛みを抱えているのに」と、
上から目線で語ると何にもならない。


怪我や病気をした時、その痛みを忘れることができず引きずる。
精神的なショックを受けた時、一瞬心が麻痺してしまうこともある。
でも、後からじんわりと心がひび割れて壊れていく。
上手に手当てをすることが出来ても、ひびは消えない。
縫い合わせても傷が残るように、心の中も傷だらけになる。
それを手術して得た治癒のための勲章とは思わない。
(そういう形で記憶できる人、感謝できる人はそれでいい)
体の傷で痛みを忘れることが出来たのは、出産の痛みだけだ。
喜びと感謝が全てを消し去ったかのよう。


でも、長期間痛みを引きずった記憶は消せない。
気にし過ぎる人が傷を重くし、治りを遅くする。
疾病利得に当てはまるのではないか。
現実から逃げているのではないか。
安静も言い渡されず、湿布のみ。
痛み止めの注射もして貰えなかった、交通事故の鞭打ち。


交通事故後、帯状疱疹胃潰瘍、延々続いた痛みの連鎖。
服薬に続く服薬。痛みが薄らいでもなかなか消えない薬疹。
どこで断ち切ることが出来れば良かったのだろう。
どこかで断ち切ることが出来たのだろうか。
今でも時々思い出すあの頃。
何年も通院が続いた頃。


救急車は受け入れ先を探しながら走った。
出血も少ないし、動脈は外れているから大げさに騒ぐなと、
傷口も洗って貰えず、消毒もされずに、
割れたガラスの細かい破片が埋まったまま縫われた傷。
救急現場ってこんなもの? 通院後、傷の消毒をしても、
ガラスの破片は取れやしなかった。


怪我・事故・病気の入院、治療中の痛み。
ああ、ダメダメダメ。痛みを連想してしまうから。


こんなふうに痛い記憶ばかり蘇ってくる、TVはどんな放送を?
あれこれ取り越し苦労、根掘り葉掘り過去を引きずる、
そんな痛みのあれこれを、連想するきっかけになったのは?
仕事で読んだ文章のせい? 無痛文明化は良くないって?
良くないではなくて・・・。
痛みは痛みとしてなくならないものだろうけれど、
受け入れるのはとても難しい。病気と闘うのではなく、
病気と共存するのが、なかなか難しいように。


今朝の新聞にホームホスピスの話が出ていた。
自分自身を失う本人も、それを見守る家族も辛い。
「仕事が終われば家に帰る。人生と言う仕事が終わる時は、
家に帰ろう」というのは心に沁みた。
専門に「寄り添う人」がいるというのは、確かに心強い。
しかし、日常生活では自分が自分に寄り添って行くしかない。


実際は、「死に臨む」日常を忘れることで生活している。
それが、生きているということ。痛みを感じる日々。
その「細々とした日常生活の痛み」の中で、
その痛みに自分自身がしっかり寄り添えるかどうかが、難しい。
今日の相田みつをのカレンダーは呟く。
「ひとりになりたい ひとりはさびしい」

慢性痛のセルフコントロール―自分でできる

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慢性痛はどこまで解明されたか―臨床・基礎医学から痛みへのアプローチ

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