Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

片道切符にしたくない

土曜日。世間は休みの人が多い。それを横目に出かける。
相変わらず研修・勉強会の土曜日。
娘と家人は大阪市立科学館で楽しく過ごしたらしい。
羨ましい。しかし、身体が二つ有るわけでもなし、仕方ない。
1週間娘に会えなかった分、家人が父親として過ごす一日。
プラネタリウムと「HAYABUSA back to the EARTH」。


娘はどうやらちょっと眠ってしまったらしいが、家人は感涙。
熱を込めてまくしたてる。「見たら絶対泣ける!
もう健気で健気で、サンプルを放出したあと、
大気圏突入して燃え尽きてしまうんだよ。
(ちなみに「はやぶさ」は今も宇宙を飛んでいる。
 燃え尽きる映像はCGで見せられたもの)
故障して行方不明になっていたと思われていたのに、
自分で自分を一生懸命修理してさ、細々と電波を発して、
地球に帰ってこようと必死に頑張って・・・。
なのに、自分は地球に帰れないんだ・・・」


はやぶさ」ついて、詳しいことはこちらを。
http://www.jaxa.jp/projects/sat/muses_c/index_j.html
遠大な計画。小惑星からサンプルを地球に持ち帰る。
宇宙版『往きて還りし物語』になるはずなのだが、
有人探査機ではなく無人探査機の哀しさ、
サンプルは地球へ、探査機本体は大気圏で燃え尽きる運命。
健気という言葉が死語になりつつある現在、無機物なものの
無私無欲な姿に、ひたむきさを感じる21世紀初頭。
・・・これでいいのか。
感極まって今日の出来事を話す家人に、うーむ、
「何かが違う、これでいいのか」と頭の中にこだまが響く。


画期的なサンプルリターン探査プロジェクト。
ごめん、かーちゃんそういう知識に疎くて。
ふむふむそういうことねと便利なネットで勉強しながら、
「惑星探査は、これまでは片道切符の旅でしたが、
 『はやぶさ』は往復旅行をする宇宙船です。」の言葉に胸が痛む。
先ほど家人の話を聞いた時と同じく、往復旅行の旅。
今までは片道切符の旅だったのに、往復旅行を目指す旅。


ああ。この言葉、今日のキーワードかも。
娘と家人の楽しい今日と対照的な私の一日。
そりゃ自腹を切って自主的に研修に出ているのは、
個人の勝手とは申せ、やらなければ自分で自分がもどかしい。
何かが引っかかるので、気になって仕方が無い。
やってみなければいけないと、心の片隅で何かがざわめく。
そうやって、自分でも行きつ戻りつする揺れる心で学び、
仕事に、それ以外のところにも役立てようと思っているのだが・・・。


いざ、研修屋勉強会に出てみると、ケースシートが統一されていないために、
一体この場でどういうふうに書けば、今回の勉強会には一番最適なのか、
迷わざるをえない。私が知っている、いや、普段書いている、
もしくは想定内でこれがベストではないかと思える形でいいのかどうか。
ある意味、初心者が陥りがちなミスや、
自分ではこうは書けないなあという新たな発見がする場合も。


玉石混交のケースレポートを目の前に、私の目を白黒させる。
腹を据えてかからないと、この訳の分からない何物かに押し流されそう。
きっと指導する側は慣れていて、常にこういうものを通して、
最初から素晴らしいレポートなど期待せず、
書けるわけではなく、これから学び積み上げていけばいいのだという
温かい配慮と眼差しの元に、後輩をメンバーを指導していくのだろう。
もちろん、この機会ごとに様々な事例を手にすることができるわけだが・・・。


統一、規定の用紙・様式では書きにくいこともあるのだろうが、
項目も区切りも無い、ただ逐語記録の羅列のようなもの、
一体ここの現場ではどのように物事を整理しているのか、
会議は無いのか、検討する際の暗黙の了解のようなものは無いのか、
疑問に思うと同時に、これだけパソコンが普及しても、
何をどのように書くのかという訓練は為されていないのだという、
根本的な部分に頭が痛くなる。
これは学校現場の問題か、社会訓練・職業教育の問題なのか。


研修はしんどい。そのしんどさを分かち合う仲間がいると思うから、
研修は成り立つ。しかし、そのごった煮にも似た色んな事例にたじろぐ。
因数分解をするように共通項をまとめて一括りにすることが出来れば、
人の世も物事も整理整頓が付くのだろうが、事例は似て非なるもの、
一回性の限りなく続く固有の事例が尾ひれをつけて一人歩きする。
しかし、それでは検討も出来ず研修にはならない。

はやぶさ―不死身の探査機と宇宙研の物語 (幻冬舎新書)

はやぶさ―不死身の探査機と宇宙研の物語 (幻冬舎新書)

深奥なる心理臨床のために―事例検討とスーパーヴィジョン

深奥なる心理臨床のために―事例検討とスーパーヴィジョン



私が言えた義理ではないけれど、ケースカンファなのか、
カルテの書き方なのか、取り合えず問題事象の洗い出しなのか、
一体何を中心に書けばいいのか、視点が定まらないナマのレポートが多すぎて、
自分が思い描いていた世界とのズレ、想定外、改めて知る舞台裏に唖然。
さらにこれらの事例事象に関して、現場で話し合う機会が無かったのか、
何故現場はこのままなのか、この問題はどのように処理されてきたのか、
そういうことは世間一般ではありというか、それが現状なのかと思うと唖然。


いかに現場では取り残され、吸い上げられずに同じことが繰り返されているか、
もしくは、事例検討なるものがいかに軽視され、為されていないか。
ダダ漏れで見切り発車のまま毎日が繰り返され、
「ああ」と溜息を付きながら、惰性で日々をこなしているか。
もちろん人のことはいえた義理は無い。自分のことだ。
何もかも自分に跳ね返ってくる。情け無いことに。情け無いほどに。


スーパーバイザーは良くわかっているから、
どんなケースレポートにもにこやかに対応し、きつい口調で対応などしない。
初めて書いてきた人間が萎縮しないよう、心穏やかに話を進める。
初心者を侮るなかれ、精進する者の迷いを嘲るなかれ。
その指導、言葉の選び方、会の運び方に私は見入る。魅入られる。
これこそが指導者の指導者たる所以だろうと、尊敬。
そして自分には決して持ち得ない心の強さ、穏やかさ。
私? 自分にはできないことを棚に上げて、「これは何?」と
切れてしまいそう。すぐにうんざりしてしまいそう。
ああ、狭量な人間。


やっとこの歳になって、(遅すぎる!)
「人の振り見て我が振り直せ」に、しみじみ。
しかし、憧れ見上げることができるような人、
「おお、そうだったのか」と師と仰ぎたくなるような人、
そういう人を身近に見出すことがないまま、
(見出す能力さえなかった、外に飛び出すことさえなかった)
「何でこんな状態で仕事を続けて」と腐って来た自分。


その自らの空白の部分が、せっかく学んで来たことさえも
慢心の落とし穴に変えてしまい、殺伐とした思いをはびこらせてきたのだ。
昔々『山月記』で習ったように。
「尊大なる羞恥心と臆病なる自尊心」の為せる業(わざ)。
環境を変え、自分から何がしかの場所を求めて飛び出さなければ、
「出会い」は無い。「発見」は生まれない。何も見出せない。
別に恋愛でも仕事でも何でもそうだが、感銘・影響を受ける、
「教えに頭(こうべ)を垂れる」ほど大袈裟でなくとも、
「訊くはいっときの恥、知らぬは一緒の恥」で質問せねば、わからない。
わからないということがわからない。

李陵・山月記 (新潮文庫)

李陵・山月記 (新潮文庫)


つくづく「暗黙の了解」というものが消えてしまった社会だと思う。
お約束、ルール、規則、そういうものに縛られたくないと思う余り、
古い価値観なんぞで未来を生きられないと焦る余り、
捨ててはいけなかったこと、忘れてはいけないこと、
当然残さなければならなかったこと、
伝え守らなければならなかったことが、捨て置かれる。
忽然と姿を消してしまい、または抹殺されてしまい、
自分たちの周囲には見知らぬもの、今まであるはずが無かったもの、
妙な誤解や曲解、ギスギスした物言い、不躾な視線、
遠慮会釈無い世界が漠々と広がり続けているかのよう。


そして、「暗黙の了解」と思っていたものが、実はまだ通じない、
未開の荒野を歩んでいたのだと改めて意識する時、
人を育てる、お互い切磋琢磨する、互いに学びあうことの貴重さ、
教えを乞うことの難しさを思い知る。
余りにも自分が長い長い間何もせずに、しようとせずに来た事を、
思い知らされる一瞬、改めて意識せざるを得ないその時、
落ち込んでいる暇は無く、進まねばならぬ・・・のだが。


「勝って兜の緒を締めよ」であればまだしも、
負け戦が続くのは何故か、問題が噴出するのは何故か、
何故同じトラブルが起こるのか、何故しんどい思いをする人が増えるのか、
トラブルメーカー、クレーマー、モンスターペアレンツばかりではなく、
サバイバーが、自分と向き合う人が、現状を打開する人が、組織が、
手続きが生まれて育たないのは何故なのか、改めて頭が痛い。
そんな現場を日々目の前にしながら・・・。
『往きて還る』ことの難しさを改めて意識する。


片道切符の旅だと諦めていなかったか。
自分さえどこかに行きつければそれでいいのだと、傲慢になっていなかったか。
来た道を振り返り、行こうとする場所をしっかり見ているか。
何かもの物語で読んだように、後ろ向きに歩かなければ道を見失ってしまう、
そんな気さえする今日。「はやぶさ」のように無私無欲の健気さはなくても、
捨て鉢にならず、もう少し頑張ってみないか。
そう自分に声を掛ける。


このどうしようもない荒野を耕す作業を、SVである人は、
どうやって今まで、どうやってこれからもこなしていくのだろうか。
そんなふうに溜息交じりに横から眺めて・・・。
はっとする。だから今、自分にできることは何なのか。
自分にいえるコメントは何なのか。
自分できることは何なのか。どうやって現場に反映するのか。


胸が痛む、胃も痛む。難しい事例のオンパレードに、
それにかかわり続けている現場の喘ぐような苦しさに、
何をどうすればいいのか、どう分析して何を掬い取るのか。
今日も哀しい。やりがいを感じる勉強会ではあるけれど、
今日も苦しい。しかし、それでもしなければと思う自分がいる。
それ以上のことはできないまでも、思ってはいる自分が。
片道切符では駄目だ、往復でなければと思っている自分が。

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