Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

落穂拾いに未来はあるか

雑感、頭の中に残っているニュースの欠片。
「ニュースを拾う」とパソコンに打ったら、
ニュースを疲労と出た。やれやれ。
この間は「何かしたいことは」と打ったら、
何か死体ことは、だったし。シュールな光景というものはあるが、
パソコンのワープロ画面は、常にシュールな字面が並ぶなあ。
まあ、耳の底、目の隅に残るニュース・記事が
明るいものではないせいかもしれないけれど。


怒りと共に読んだ、大学への交付金の記事。
いわゆる成果主義に基づいた、大学の差別化の記事。
教育系大学が軒並み能無しアホ扱いされているのが、悔しい。
研究できていない、資金を使いこなせない、
即利益に結びつかない、そんなイメージを増大させる、
記事のありようが嫌らしい。


というか、国家百年の計の意気込みを以てして
教育に人的にも経済的にも投資しようともせず、
僅かな期間で結果を測ろう、刈り取ろうとすることぐらい
虚しいものはない。お役人は馬鹿を作りたがっている。


この「美しい国」には、賢い国民なんか必要ではないのだ。
教育と医療を崩壊させて、心身共にまともじゃない奴が多ければ、
権力を握って好き勝手な統制をはかり、思い通りに法案を通して、
我が世の春を謳歌するであろう、
一部の人間が得するシステムが確立できるから。


国民に色付き眼鏡を掛けさせて、
オズの国の魔法使いになりたがっている
そんな為政者に、「指導力」を感じるという。
生も性も、目に見えない折の中で培養される、
国家栽培の規格品に、それも検品基準の低い規格品に
格下げされようとしているのに、何故、気付かないのか。
何でも個人レベルに還元して、国家は何もせずに済む、
旧態然とした差別・区別を温存したいが為の、
隠れたカリキュラム同然の、政策。


女性は産む機械、旬を過ぎれば家族愛という虚構に縛られた
介護地獄の姥捨て山に葬り去られる。
子育て支援というものは女性に対してするものだと思っている、
愚かなお役人も多い。子育ては女性がするものだと思っているから、
母乳育児にまで口を出す。氏より育ちという諺を知らんのかね。


子供を育てるという事、人一人を育てるという事、
教育の世界での、一朝一夕の利益を度外視しなければならない、
金銭では測ることのできない、目に見えない部分を
何故、浅薄なペーパーでの「成果」として評価しようとするのか、
全く理解しかねる。

ピーターラビット&フレンズ 音楽の森シリーズ~おはようクラシック~

ピーターラビット&フレンズ 音楽の森シリーズ~おはようクラシック~

  • アーティスト: 幼児用,ノイマン(ヴァーツラフ),グローブズ(サー・チャールズ),豊田耕児,井上圭子,ベデルニコフ(アナトリー),シュミット(アンネローゼ),ヘラー(ギュンター),リトル・ピーター・ラビット楽団,ルヴィエ(ジャック),ミルドニアン(スザンナ)
  • 出版社/メーカー: 日本コロムビア
  • 発売日: 2005/07/27
  • メディア: CD
  • この商品を含むブログ (1件) を見る
くたばれ成果主義!

くたばれ成果主義!


母乳で育てろという。母乳は金のかからない愛情の源、印だという。
母乳が出なければ、欠陥育児しかできないのか?
教育大関連は、研究成果も論文も今一つだという。
教育を蔑視して、研究者も大学の存続そのものも軽視してきて、
ゼロ免の学部まで作った挙句、少子化の子供に満足に対応できる
十分な教師の数を育成することもせずに、今まで来た。
そして、教育大学は金をかけてもやっぱり無駄だったと言う。
食事させずに育てた子供が栄養失調だから、低脳だといわんばかり。


政治による教育・医療・福祉への虐待。
無視し過干渉し、殴打する。
大衆は、国に見捨てられているという事実を意識しないために、
意識を分裂させる。多重人格化する。自分自身を見失う。
痛みを感じないために、幾らでも人格を作る。
統合へと導くための隠れている人格は、無理矢理統合させられれば
すぐさま自殺へ走るだろう。
良識ある人々から無意識に自滅して、過労死するように。


以前は大学の内外も花が溢れ、躑躅やさつき、咲き溢れるこの季節、
国公立大学の庭は荒れている。
人の心を耕せ、育てよと要求される教育大学の庭も、
雑草だけが生い茂る。切り詰めた予算の陰で、
学生と話し合う時間を失い、師との交わりを体感できずに、
現場へ向かう教師の卵は多い。


ましてや、現場で相応のキャリアを積み、
再び新たな視点を得るために学び直す、
社会人学生や院生の悩みは深い。
国から重きを置かれていない、
児童生徒のみならず、保護者からも協力を得られない、
そんな教育現場に帰っていく為に、懐疑的になりつつも、
理想、あるべき姿を求めなければならない。
この矛盾した状態で、何の研究ができるだろうか。


医療の現場で、基礎的な研究や医療教育が軽視される。
同様に、教育の現場ではコストに見合った人間の育成を要求される。
そして、個の尊重、ゆとり、全人教育、総合学習
訳のわからない言葉に象徴される、「何でもや」を押し付けられ、
家庭内教育力と社会教育力の低下はの責任は全て、
無能力な教員が育成した人間が、
長じて親になった世代が増えてきたから、だという。
ホントかね?


だから、マスコミはメディアは、新聞に成果主義の記事を書く時、
教育大学系が、成果主義のお眼鏡にかなっていない結果となったので、
交付予算削減は避けられない。
反発は必至という、安易なデータの読み方を強調するような
(というより、誤解を増大させているとしか思えない)
記事の書き方をしないで欲しいものだ。
もちろん、記事を書く側がそのレベルであれば、望むべくもない。
これがこの国の教育政策の結果を顕著に象徴している、というわけ。


そして大衆は教育をお金で買う。習い事・お稽古事と塾と予備校。
公的機関などに頼りはしない。形だけの学歴さえ手に入れれば、
現実に目を瞑って趣味に生きる、一芸に打ち込む、
お笑いに打ち興じる、ゆとりのある悠々自適でストレスのない、
年金は自前で心は自由、生活は切り詰めて、ジリ貧の
隠れた政治経済公民科カリキュラムの未来が、待ち構えている。


成果主義で失敗した国にも企業にも学ばず、
成果主義を取り入れたがる、謎。
アメリカが放棄した教育カリキュラムを、導入する文科省
自虐的に崩壊したいとしか思えない、義務教育、高等教育。
こんな国で子育てしたいとは思えない。
安心して教育を続けられるとは思わない。
なのに国民は一億、諦めることに慣れさせられる。
耐え難き、いと耐え難き・・・。