Festina Lente2

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パスワード

朝。もう手には携帯が握られている。
何しろ目覚めの音楽も、体調に合わせて選んでくれるのが携帯。
健康診断も、毎日携帯が行ってくれる。
手に持っただけで生体波の測定、脈拍や体温、血圧等
バイタルは全てOK。もし何かあれば、自動的に
医療機関に連絡してくれる。こちらから病院を選ぶ必要はない。
少々の体調不良、気分的な不快感、そういうものは、
携帯から聞こえる音楽や、画面の映像、流れてくる微弱な音波、
微かに感じる振動で解消される。
何しろ、持ち主のDNAが組み込まれている携帯だ。
自分の体のことは、全てデータ化されて管理されているといっていい。
毎日携帯に触れてさえ居れば安心だ。
「便利な世の中になったものだ。」N氏は呟く。


その日の体調を気にしながら生活することも、
いちいち薬を飲むことも、自分の症状に合わせた病院や医師を
探す必要など無いのだ。自分の携帯が全て探してくれる。
主治医は何となれば、この携帯だといっても過言ではない。
不安なことがあれば話を聞いてくれるカウンセラーも、
精神科医も、全て携帯の通話で用が足りる。
画面がテレビ電話になっているから、相手の顔を見ながら
話すこともできるが、この機種になってから。
実際に人と会って話さなくても、違和感がない。


「便利な世の中になったものだ」N氏は携帯を握り締める。
話し相手も携帯が見つけてくれる。何しろ自分の好み、
自分の嗜好、全てを知っている携帯なのだ。
話したくない相手を見つけてくる訳がない。
話したい話題や趣味に沿って、携帯は常時アドレスに
人材をストックしてくれている。名前や年齢を見ながら、
誰と話そうか、会おうか決める訳だ。
交友関係に、不必要なストレスを持ち込まなくて済む。
別に顔を会わせなくても、お互い携帯で話は済む。

だれかさんの悪夢 (新潮文庫)

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「便利な世の中になったものだ」N氏は携帯を握り締める。
いちいち人に会わずに仕事もできる。友人と話ができる。
交通費もかからず、交通機関も使わずに済む。
余分な燃費を消費することも無く、空気も汚さず、
燃料を浪費することもない。そう、人間は家にいればいいのだ。
自然を保護するため、不必要な2酸化炭素を排出しないため、
温暖化を防ぐため、オゾン層の破壊を食い止めるため、
一番効率がいいのは、人間が従来の活動を停止することなのだ。


「便利な世の中になったものだ」N氏は呟く。
携帯を握り締めている感覚は、もはや無い。
自分自身が、携帯の中に住んでいるような感じ、
携帯と一体化したような安心感で満たされている。
通信装置と一体化していれば、自分のいる位置も、
知らない言葉も、欲しい情報も全て瞬時に手に入る。
動かなくてもいい、というのは楽なことだ。
何故人間は、今まであちこちに移動しながら、
お互い顔を会わせたり、物を食べたりしていたのだろう。


「そういえばこの携帯に触れてから、食欲を感じないな」
N氏は改めてふと思った。急に喉の渇きを覚え、
口の中に、何か入れたい衝動に駆られた。
しかし、何が食べたいのかわからない。
とにかく何か食べなければ、と強く感じたので、
急に不安になってきた。こんな風に食べたいという衝動に
駆られるなんて、体の調子が悪いのだろうか。
携帯を握り締めながら、N氏は呟いた。
「ああ、何か美味しいものが食べたい」


すると、携帯から初めて聞く声が聞こえた。
「パスワードをお答え下さい」
パスワード、自分のパスワードとは何だったろうか。
「登録されているDNAの番号に従って、
パスワードをお答え下さい」冷たい声が響いた。
N氏は思わず、「パスワードなんか思い出せないよ。
それよりもお腹が空いたんだが、どうしたらいいだろう」
いつものように携帯が自分にとってベストな相手、店を
見つけてくれると思ったN氏は、のんびりと話した。


「パスワードが確認できませんでした。
 サービスを停止します」携帯からは冷たい声が響いた。
そう、人類がいつも以上に何か食べたいなどと言い出した時、
資源を消費する方向に向かった時、携帯はサービスを停止する。
携帯に組み込まれたDNAは、ナノレベルでN氏に還元される。
つまり、N氏は自分でも気が付かないうちに意識を失い、
生体反応を消されることになるだろう。
食欲や性欲、どこか遠くに出かけたい等、
そんな願望を持つから、エネルギーは消費される。
今まで以上に何かを望むこと、それは老化したという事、
不必要な成長を遂げたという事、
そう判断されて、携帯はサービスを停止する。


人間を保護するロボットに、手足があるとは限らない。
小さな部屋の中、仮想空間内に人を閉じ込める。
最低限の肉体の成長、発達、教育、夢。
結婚の必要はない。精子卵子以外の細胞からも、
クローンは作ることができるから。
機械が必要と判断したDNAだけ、地球型生命の
サンプルとして残しておけばいい。
N氏もその1人に過ぎない。

あのころの未来―星新一の預言 (新潮文庫)

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ねらわれた星 (星新一ショートショートセレクション 1)

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