Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

ルノワール+ルノワール展

夏休みの1日目。朝もはよからお洗濯。干し甲斐があるお天気。
娘は学童へ。私は京都へ。午後からは勉強会だが、その前に、
21日で閉幕するルノワールルノワール展をどうしても見たい!
大好きな京阪特急は停車駅が多くて、昔より時間が掛かる。
かつては路面電車でのんびり行った道を、地下鉄で一駅、東山。
京都国立近代美術館で開催されている、美術展。


実は家族で来たかったのだが・・・。
夜の7時までやっているせいなのか、暑さのせいか、
思いの外人出は少ない。ラッキー。
ここまでどう頑張っても片道2時間超。
夜に来たいのは山々だが、そうなると帰りがね・・・。

人生の半ばを過ぎてから家族を得て、わが子のかわいさを、
父として画家として描かずにはいられなかっただろう、その衝動。
髭をたくわえた好々爺の、息子達に対する愛情が伝わってくる。
あれあれ、いくら柔らかい長い髪が好きだからって、
幼い息子を女装させるというのも・・・。
まあ、男の子に女の子の格好をさせると元気に育つとか、
そんな言い伝えを聞いたこともあるけれど。


ともかく豊満な肢体と、光溢れる画風で知られる大家、
ルノワールの父としての在り方、そして息子達から見た偉大な父。
父親の作品を題材、モチーフとして使った息子達の作品、映画。
展示の仕方としてはやや斬新な、そしてテーマの絞り方がユニーク。
親子の作品に共通して流れる芸術的感性が浮き彫りにされる。
同時に、父が子に注ぐ、子が父を追うまなざしが。


自分が10代20代だったら、どんな作品の見方をしただろう。
ルノアールと同じように、人生の後半、わが子を得て、
物の見方感じ方が変わり、娘を得て学ぶことの多い日々。
多くの作品を解説を交えながら見ているうちに、
どう説明したものか、親として複雑な気持ちになってくる。


きっと、印象派の画家として大成するまで、
子どもの知らない苦労をしたであろう、印象派の画家。
息子達の知らないルノアール、知っているルノアール
様々な角度から描かれる、ルノアール親子の世界。
肖像画家として知られるピエール・オーギュスト・ルノアールが、
映画監督となった息子ジャンと共に、新しい角度から語られる。


ルノアールの作品は、何故か男性は面長でハンサムなのに、
女性はややひしゃげたような、横長に見えかねない面差し。
ふと、岸田劉生の麗子像を思い出す。
愛娘を描いたにしては、やや不気味な静けさを醸し出す肖像画
豊満で着衣でも裸婦でも、大差ないように描かれている。
お針子を妻に持ち、仕立て屋の息子だったルノワールが描く、
モードの数々は、それだけでも見ていて楽しいが、
緻密に描かれた生活の一場面は、胸打たれるものがある。

若い頃はおもんぱかることが出来なかった、親の思い。
後から、ある一定の歳を過ぎてから、家族を持ってから、
親はどうだったのだろうと、思いを馳せることはよくある。
しかし、だからといってコミュニケーションが
十分に取れている訳ではないという、現実。
故郷を遠く離れて関西で暮らす父が、家系図作りに熱中するのも、
何かを伝えたいという思いがあってのことだろう。


子どもは親の影響から免れることはないという。
それでは、私の娘は?
父が息子を、息子が父を見つめる時、
母は娘を、娘は母をどんなふうに見つめるのだろう。
その時、側に居なくなってしまってから、先。
その日のことを、自分の母に対する思いを考えつつ、
置き換えて考える。


絵の中で対話する、自分自身。親子関係。
それから先、伝えたいこと、伝えきれないこと。
様々なこと。熱い夏の、午後。
大阪での勉強会にとって帰す、京阪電車
思わず暑さで眠くなり、終点ですよと起こされた。
かーちゃんはばてながら、合流を夢見る週末。
とーちゃん、本日通院日。

わが父ルノワール 新装版

わが父ルノワール 新装版