Festina Lente2

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誕生日の買い物

結論から言うと、娘は誕生日の御買い物に祖母と家人と出かけた。
好きなものをねだるという、特別扱いの誕生日の買い物に。
感謝、感謝。
1年に1度会うか会わないか、それも御彼岸に帰省。
1週間後には誕生日が控えている。それも10歳の。
この時期、おねだりしても罰は当たらないだろう。


「本当におねだりしてもいいの? ゲームでもいい?」
そう尋ねられるのも無理は無い。うちにはWiiは無いし、
ゲーム機の類も無い。人生ゲームやオセロならあるけれど。
DSもせいぜい『時雨殿』『100マス計算(これは失くしてしまった)』
もじぴったん』『空トレ』などで、純粋なゲームソフトは無い。
というよりも、私が許していなかっただ。


一人っ子の娘が、一人遊びばかり上手になっては困る。
そんな危惧も抱いていたし、ゲームで目を悪くしてもらいたくないし。
両親揃って両眼とも0.01を切っている裸眼視力。
それでなくてもケータイ・パソコン社会で目を酷使するというのに、
今からゲームに熱中しなくても・・・、そんな気持ちが強かった。
読書の楽しみも知らないで、ゲーム熱に浮かされて欲しくなかった。


幸い本は大好きだし、漫画も読める。映画も嫌いではない。
御話をこっそり書いたりもしている。
いつまでも頭ごなしに禁止令を敷いているのは宜しくないと判断。
「おねだり」ということも、あからさまなものは禁じてきた。
必要なものは幾らでも用意しているという前提の下に。
しかし、自分のお小遣いでちょっとしたものを買ったり、
甘えて欲しいものをねだったりできる子供時代のの特権を、
無碍(むげ)に奪い続けることも出来ない。
今回、思い切ってGOサインを出したのだった。


娘が喜んだのは言うまでも無い。
初めて手にするDSのゲームソフト。それがお目当て。
「かーさんは絶対買わない」宣言をしているので、
自分でおねだりしなくてはならない。ということで、
祖母と家人と出かけていった今日の午後。
私は距離を取って、直系親子3世代を見送る。


娘が買ってもらったのは、最近TVで宣伝している
トモダチコレクション』ともう一つ。
どちらもずっと欲しかったのだそうだ。
学校の友達が持っていて、あれこれ話したり、
遊びに行った折に見せて貰ったりしていたよう。
そりゃあ、子供にしてみたら自分も欲しいのは当然だろうな。

トモダチコレクション

トモダチコレクション

相性大全

相性大全



昨日のお出かけは、ちょっと娘にはきつい内容だった。
でも、10歳の誕生日前ということで一人ずつ鯛を焼いて頂き、
夜はめでたい食事。この祖父母の気遣いをどこまで理解できるか。
しかし、贅沢の感があれど、昔とは違う。
「鯛を焼く」食事が、めでたさの象徴だという生活感覚が、
残念ながら、子供にはまだしっかり根付いていない。
現代っ子なのだ。
自分の好物では無い儀式的な「鯛」に、おっかなびっくり。
無理も無い。普段食べてはいないのだから。
だからめでたい席の食事なのだけれど。


子供にわかるように話すのは、親でも大変な時が増えてきた。
節目節目やルール・規範を納得させる時に、愕然とすることも。
特に、友人と自分を比べるようになってきたギャングエイジ、
思春期の入り口の娘、温かい言葉をしっかり掛けて貰い、
記念となる品を目の前にしないと、実感できないことは多い。
具体的なもので示さなくては分からない。


周囲とは異なる自分を思い描きたい時代、何かと期待している子どもにとって、
きちんと示してもらえないというのは酷な話。
後で無駄になったとしても、今与えておかなければならないもの、言葉、お金、
そういう一見無駄に見える部分が、後から懐かしく振り返ることができる、
豊かな思い出の一部になるものだ。
単純に「ものでばかり与えてどうする」と切り返すのではなく、
「ものに付け加えられているもの」が、何かを分からせる事を、
親の自分も含めて、周囲の協力が無ければ難しい。


それでなくても、友達から聞いた話と比較して、
祖父母から電話もプレゼントもお小遣いも無い生活では、ちょっと。
「我が家にはプレゼントのやり問いの風習は無い」
「お年玉の習慣は無い」と押し通されれば、
受け入れるしかない子どもにとって反論できず、
割り切るのも難しく、遊びに来ても居辛いものだ。
特に、いつもいつものことではなく、特別な時は。


特に男の子の従弟達があれこれ貰っているのに、
総領孫でも女の子の自分には、何も無いでは・・・。
もう、小さな赤ちゃんではないのだ。
10歳ともなれば、無碍(むげ)な子ども扱いはできない。
自分の意思もしっかり表現できれば、自我もはっきりしている。
常々「男の孫では無い」という暗黙の比較、
内孫ではないということを前面に出されれば、
それはそれで、かなり辛いものなのだ。
(私にとっても娘にとっても)


幸い娘は一人っ子なので、年の離れた従兄弟達が大好きだ。
「階段の上り下りを教えてあげたのは、私よ」と、
お姉さんである事を誇りに思っているくらい。
お姉さんであると同時に、血の繋がった従弟をいとおしむ。
その気持ちに応えて欲しいと思うのだが、


嫁(になったと私は思ってはいないが)への気持ち、
跡取りがという気持ち、その他云々がどこまで影響しているのか。
その他諸々の軋轢が、娘の誕生日の思い出に影響して欲しくない。
誰かから少しずつ、その一つ一つが思い出の「かけら」になる。
一つ一つが、ものや言葉が、その時の場面場面が、
その場に居合わせた人が、記憶の中に存在する。
だからこそ・・・。


トモダチコレクション』を手にしてあばたーにあたる、
嬉々としてMiiを作る娘。ちゃんとじーちゃんばーちゃんを作り始めた。
このことが、家族を象ってゲームの中に置き換えていくことが、
どのような心の世界として影響していくのか、
このあと、親子で体験していく私たち。
私が買ってあげたのではなくて、誰が一緒に買い物に行ってくれたか、
そんなふうに記憶されていくことが、大事なことだと、
思っていない人もいるようだけれど。


「もの」が大切なのではなくて、「もの」の背景にあるもの。
「もの」で繋がる所から始まるものも、沢山あるということを。
一言声を掛ける所から、一本の電話から、お小遣いから、
記念品から、プレゼントから、心遣い気遣いが分かる時があるということを。
誰にどんな風にしてあげるといいか、して欲しいかを体験させるのが、
「お付き合い」の程度によってどれだけ難しいか。


「人には添うてみよ」の、どんな人と付き合うか。
これがまた、大変で。
でも、これは誰にとっても「あいこ」だからしょうがないか。
とにかく娘の『トモダチコレクション』生活が始まった。

ハピハピバースディ

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