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コララインとボタンの魔女

映画と歯医者と映画
有給休暇を消費する為に丸々一日休む。
何しろ歯科大はどれくらい時間が掛かるかわからない。
主治医がいないので電話を入れていても、救急の受付は午後の1時半から。
付けて5時間いないに落っこちた本歯の仮止め、どうにかしてもらわなくては。


その前に気になっていた『コララインとボタンの魔女』を観に行く。
本日までの上映、せっかく原作を読んだのだから観て置きたい。
3Dというのが気に食わないのだけれど。
映像の力に頼りすぎるのはよくないとつくづく思う。
映像が想像の余地を残すのならばいざ知らず、
映像が想像の余地どころか、想像力そのものを奪って、
先入観しか植え付けないのでは、困る。


全ての画像を白黒映画の時代に戻せなどとは言わない。
3D映像ばかりにこだわって、映画の本質を忘れられては困る。
映画が記録しようとしているもの、
伝えようとしているものの本質を忘れられては困る。
そういう点でいえば、映画は割合と原作に忠実で
(もちろん異なる部分も多々あるが)、


ストーリー展開としては面白かったものの、
3Dだから良かったと言い切れるかどうか、
非常に微妙。それは絵本でいうならば、
飛び出す絵本がいいか、触れる絵本がいいか、
蛍光塗料で光る絵の具がいいのかといった感じ。
読む人の好みにもよるだろうが、とりあえず3D版の絵本という感じ。
(目が異常に疲れるという点で3Dは余り好きでなはない)


仕事にかまけている両親、一人っ子で寂しい主人公。奇妙なご近所。
寂しい子供によくありがちな夢想。理想の(都合のいい)両親を夢見る。
禁断のドア、不思議な世界。美味しい食事と楽しい出来事、
砂糖菓子の甘さで作られたお菓子の家と同様、都合のいい家族と家庭像。
しかし、それが幻想だとわかっているから本物じゃない楽しさから、
本物の世界に戻ろうとすったもんだする。


TVゲームの世界にのめりこむように、都合のいい世界にのめりこまず、
きちんと元の世界に戻ろうと戦う辺りが、健全な精神といえようか。
たまたまそういう強さがあったから主人公になれる訳だが、
そうでなければ「ボタンの目」になってしまう。
つまり魔女の思うがままに作りかえられる、
命のないお人形にされてしまうわけで・・・。

コララインとボタンの魔女

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臨床心理の分析から見れば面白いのだろうけれど、物語の世界では、
魔女は本当の母親の一面だし、グレートマザーの禍々しい側面、
飲み込もうとする母親像の象徴だから、
子どもを自分の都合に合わせて作りかえる、
それは当たり前のことだろうと思う。
縫い物をする、料理する、ありとあらゆる作業をこなす母親の手、
それは家庭を維持する家族を支える、生活の根本を為すもの、
しかし、その手が蜘蛛の巣を張りひとたび自分が手にしたものを、
カラカラに干からびるまで手放さないとしたら・・・。


親が仕事で忙しいのは何のためか、
自分が一人で放っておかれているのは何故か、
孤独でも雨でも外で遊びたいと思うのはどうしてか。
映画を見ながら自分の子ども時代と照らし合わせて、
一人娘の心を想像しながら、行きつ戻りつ考える。
ちなみに家人もこの映画を先に見ている。
娘は予告編で「ボタンの目が怖い」と見るのを拒否。
何か思うところがあるのだろう。


この映画、この物語はファンタジーでもあり、ホラーでもある。
童話や昔話の物語世界は、象徴としての親殺しや殺人、冒険は付き物で、
主人公は自分の持てる全てを使って戦わなければならない。
怖いの辛いの嫌だの言っていたら、日常世界だって立ち行かない。
嫌なことオンパレードの毎日だって別に珍しくない。
コララインはご近所からキャロラインと間違えて呼ばれて憤慨しているが、
名前をきちんと覚えてもらえないということ、
名前をきちんと呼んでもらえないというのは、意味深なことだ。


仕事で忙しい両親はコララインと呼んでくれる。(ネズミ達も)
彼女の存在をどうでもいいと思っているご近所は、キャロラインと呼ぶ。
正しい名前で呼ばれるようになる為には、「コラライン」であるという、
自分の独自性、唯一無二の存在をアピールしなければならない。
魔女に狙われるような、(寂しさの余り現実から離れて夢想の世界に浸るような)
そういう子供ではなくて、アイデンティティをしっかり持った
「自分自身」にならなければならない。


原作にはないキャラクター。ワイボーン(WHY BORN?)とという名前も、
そのために作られたのだろう。思春期は自分が何故生まれたのか、
どうしてこの両親の元に生まれてこなければならなかったか、
あれこれと思い巡らす年頃だ。
自分は両親にとってどういう存在なのか。
もしも娘からこの質問を突きつけられたら、どう答えればいいだろう。


幼児の頃から子守唄で繰り返してきたように、「ママの宝物」では済まない、
納得させられる答が必要なのだろうが、一言では言えない。
ただ、子どもというものは親と疎ましく思いながらも、
親から離れられない事を知っている。
それが故に、無理やり離れようとする者もいれば、
付かず離れずでいられるものも、全く音信普通になる者も、様々。
どのような親子関係でいられるか、親が望む形を子どもが全うするとは限らない。
親の心を子どもが慮ることは困難であり、その逆もまた更に困難だ。


3月4月、卒業入学と旅立ち巣立ちの季節を迎え、
空の巣症候群に悩む親も多かろう。
人様の話を聞いていても、吾が子の巣立つ日自分はどうかと想像しただけで、
胸が潰れそうになり涙がこぼれる。子どもが未来を思う晴れがましい日、
親は未来よりも来し方を思い、感慨に耽る。
娘がまだ10歳半なのに、二分の一成人式の文章に涙するぐらいだから、
数年後どうなるかわからない。


そんな親の心を知ってか知らずか、世界中の無数のコララインたちは、
親と自分の距離を測りかね、自分の孤独を持て余し、
別の世界、別の両親、別の家庭を夢見るだろう。
かつて親たちもそんなふうに子供時代を過ごしたように。
親を責めるのはたやすい。
自分の生まれた環境を悲観し、あれこれたと比較するのはたやすい。
しかし、自分が生れ落ちた所からどうするか、
コララインはもう自分で考え動ける年齢になっている。


大人になっても恨みつらみだけで、子どもという枠、
幼い考えから逃れられない場合も多々ある。
自分の名前を名づけたのは親。しかし、どんなふうに成長したいか、
どんな大人になりたいか、何ができるようになりたいか
考えるのは自分自身。


さて、私のコラライン、私の一人娘よ。
海洋キャンプ中の娘よ、今頃何してる?

Coraline

Coraline