Festina Lente2

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Back to the Future & Bedtime stories

今日は年に一度の大掛かりな音楽教室の発表会。お陰で3月の連休はいつも潰れる。
親子共々ありがたくないのだが、これも世間のお付き合いということで出ている。
心から望んで発表会に出向いているわけではないところが哀しい。
ただ、自分の過去を振り返ると個人レッスンのみ繰り返し、
舞台というものに立たなかったので、舞台度胸も付かず、伴奏も出来ず、
ソロも連弾もアンサンブルも、何一つまともに腕を磨けなかった苦い経験があるので、
渋る娘を心の中で申し訳なく思いながら、グループレッスンに送り出している。
その成果・・・ということになるのだが、どれほど娘のためになっているのか、
親としては今一つわからないが、何事も経験。
時間の無駄にならないようにと願うばかりだ。


というわけで、本日発表会の曲は皆様ご存知のBack to the Future!
むろん、1作目のテーマ。所が娘は肝心の映画を見ていない。知っているのは3作目。
それでも、映画のストーリーを話してやると興味津々、ありがたいことに、
インターネットで御手本になるような動画も流れている。参考に練習。
何とか乗り切りました。だって主旋律なので美味しいとこ取りで弾いてますから。
親としては覚えやすいパートでよかったなあと、胸を撫で下ろしながら鑑賞。
冷静に考えてみると、ポカミスすると一番目立つパートでもありました。


自分が弾きこなすことの出来なかったエレクトーンをグループレッスンで弾き、
ステージアの前でライトを浴びている娘を見ていると、
やっぱりこういう経験を長い人生のうちに、少しでもあった方が良かったと、
きっといつか振り返ってくれるよねと、親の欲目で考えている自分がいる。
ああ、正当化しているのかなあ、親としての自分を。
ピアノの個人レッスンもきちんとした楽曲集を順番に弾きこなすのではなく、
子供向けの教則本を弾いているので不安ながら、口出しは出来ない。


親としては口出しできるのは、ほんの少し。
指の動きやキータッチはまだまだ負けないものの、スタミナが、なあ・・・。
娘よ、君が色んな曲を弾きこなしていくのを耳で聞く限り、
自分が若返って練習しているような気持ちになるかーちゃんだ。
そして、あの頃こんなふうに練習すればとかあんなふうに弾けばとか、
半世紀近い昔の事を、あれこれ思い浮かべている自分に苦笑い。
親であり、かつ、遣り残した思いの強いまま年を取った自分の、
過去の私と現在の私の、双方の思いを二重に背負って、
はえっちらおっちら、自分の人生を歩んでいるというのだろうか。


まあ、私にピアノを買い与えた母も、娘が楽曲を軽やかに奏でるという、
親馬鹿な幻想にとらわれながら、内職に内職を重ねてアップライトピアノ
やっと買ってくれたのだろう。ピアノを弾く娘の姿は娘よ、祖母の代からの夢、
憧れ、未来への玉手箱のようなもの。
映画の中のデロリアンではないけれど、ピアノを弾くということが、
目に見えない未来への旅立ち、軌跡。
そして年老いて行く世代は、その若い世代のエネルギーや経験を追体験
ある意味再体験することで、人生を曳航されているようなものだ。
別の意味で言えば、リフレッシュ、生き甲斐を感じるひと時。
振り返りのひと時でもあるわけだ。

バック・トゥ・ザ・フューチャー ― オリジナル・サウンドトラック

バック・トゥ・ザ・フューチャー ― オリジナル・サウンドトラック

バック・トゥ・ザ・フューチャー・トリロジー

バック・トゥ・ザ・フューチャー・トリロジー


『ベッドタイムストーリー』Bedtime stories。
昨日家族で見た映画は、昨年の『魔法にかけられて』ほど、面白くなかった。
TVの宣伝でBack to the Futureのテーマ曲が使われていたから、
少し期待したのだけれど、西部劇のもじりでもなく、ベンハーのパロディでもなく、
御伽噺の焼き直しでもない、子どもに聞かせたはずの寝物語がデフォルメされ、
現実になればいいと願うさもしい大人の物語で、駄作この上ない。
何故ディズニーはこういう駄作にもお金をかけることが出来るのだろうと、
不思議になるくらい、中身の無い映画。
ナルニア国物語級ばかりを期待するわけではないが、あまりにひどい。


子どもに読んで聞かせる物語がどれほどのふくらみを持つのか、
子どもの心になって遊ぶことが、どれほど大人の自分を癒し、
力づけ、活性化させてくれるのか、普段手に取らない子供向けの本に、
思わずどきりとさせられたり、泣かされたりすることもよくあるのに、
そういう深まりも何も無く、自力でやり抜く努力や誠実さ、粘り強さ、
創意工夫などが実る話でも何でもなく、間抜けな笑い話的落ちと、
ロマンスをくっつけてハッピーエンドに仕立てただけの作品。
がっかりした。TVの宣伝に何の為に使ったのか、
Back to the Futureのテーマ曲。


子どもの成長に自分の過去を重ね合わせて、未来を夢見る。
自分が再び生きるために、身近な子どもの姿に自分を引き合わせて考える。
そういう話は、姿を変え形を変え、色んな話にリメイクされてあるはずなのに、
どこをどう間違ってこんなくだらないストーリーを映画にしたのか。
子どもに「ハッピーエンドなんて無い」という事は、いけないというポリシーではなく、
ハッピーエンドを夢見る力をどう育てるか、どう使うかを主眼に置けばいいのに、
単純に力不足の主人公を揶揄しこき下ろし馬鹿にして、道化たままで、
他人の力で棚ぼた式に幸せを手に入れるストーリーばかり見せて育てる方が問題。


たまたま娘と借りてきた絵本。『ホームランを打ったことのない君に』
これは、とある読書指導の本の推薦本だけれど、短くてピリッと良かった。
残念ながら泣きそうな私を娘は理解できない。
どこに感動したか説明したら、「確かに泣ける話だなあ」とボソッと一言。
この絵本は子どもにとったら読み過ごしてしまうオチがある。
でも、大人に取っては今まで生きてきたこと自体がある意味、
「ホームランを打ったことがない」まま生きてきて、
良くてヒット、悪ければ三振なんてザラだから、
短いストーリーの中に自分自身の生き方を重ねて読み込んでしまう。


ホームランを打ったことのない君に

ホームランを打ったことのない君に

はせがわくんきらいや

はせがわくんきらいや


世間はワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に湧いている。
いい年下大人が頬を紅潮させて、高速道路のサービスエリアでTVにかじりつき、
若者は職場でこっそりケータイでTV鑑賞。うちの職場もご他聞に漏れず。
でも、そんなふうに試合に一喜一憂できるのは、自分を重ねて見るから。
おじさんおにーさんになって、野球のやも関係ない生活をしながら、
野球にある種の「夢」を見出しているから。


ひと時の夢が、映画や音楽、読書が新たな人生・夢・生き甲斐を与えてくれる。
生きるためのエネルギー、興奮、励まし、癒し、ロマンス、笑い。
それらはある時は野蛮なまでに、ある時はかけがえも無いほど上品でロマンチックに、
自分自身の生活を彩って欲しいと思う。せめて、現実でなくてもその作品の中では。
心をある種の高みに引き上げて欲しいと願う。
そして、拭い去れない渋みを噛み締めながらでも、生きていけるように、
打算や追従、卑屈さから離れた笑いで支えられていて欲しい。


Back to the Future そう、お父さんとお母さんが恋に落ちなければ、
自分は生まれてこなかった。自分という現実、両親にとっての未来は成立しなかった。
そういう当たり前の出来事を、日々、君を産んでから実感しているよ。
君は私達にとっては未来への玉手箱。私の両親にとってもそう。
入れ子になって、何十にも何十にも包まれている未来への玉手箱。
君が弾く曲を聴きながら、そんな事を思っていたよ。
かーちゃんは、ね。「これからの未来」を夢見たよ。