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旧西尾家住宅見学

娘と家人はサイエンスカフェに出かけた昨日の今日、
私はグループワークの研修に出向いてみた昨日の今日、
お互い何となくけだるくて、気持ちがしゃきっとしない日曜。
かといって丸1日、狭い家の中でうだうだしているのも重苦しい。
気持ちがただでさえ、重力に引っ張られる以上に落ち込んでいるのに、
何とか浮上するきっかけを見つけなければと思ってはみるものの、
自分では動きようがない、動く気が起こらない。


    

  


珍しく家人が出かけようと誘う。
何でも歴史的建造物が見られるという。
西尾家住宅? 何だそれは? 家人の単身赴任先の市内には、
昔の旧家が残っているそうな。財政難の折、公開したりしなかったり、
あちらこちらにある歴史的建造物、ボランティアの人が案内してくれるという。
この1、2年、「大大阪」と呼ばれた時代の大阪市内の建物を見るのが楽しい。
そして近代的なビルでなくても、先週見た藍の館のような旧家、古民家、
商家や農家の佇まいにはどうしても気持ちが動く。
家人は私の重い腰を上げるコツを心得てきているようだ。


    

  


そして、春分には一ヶ月もある早い日暮れの午後のお茶時、出向いてみる。
なるほど、これは大きい。庄屋は庄屋でも京の都と縁のある「仙洞御料庄屋」。
多の庄屋とは格が違うと自他共に意識されたことだろう。
京の文化、商都大阪の文化、大勢の人が出入りする広い庭先、
離れに茶室、入り組んだ母屋。1時間ではとても見られない。
何しろ平成21年の重要文化財に指定されてから、その維持も大変になったという。


      

      

  


数寄屋風を意識した主屋、その柱や畳、欄間の飾り、縁側の昔の古いガラス障子。
そこから見る庭先、そして奥向きの部屋、陰影礼賛の和の美。
弥生を先取りした掛け軸や雛飾りが部屋や廊下、あちらこちらに。
なかなか寒い1日ではあるのだが、こうやって中をじっくり見せて貰うと、
日々の疲れや物思いが消えていき、祖父母が若かりし頃の時代、
明治以前の伝統が息づく生活感覚、豪農・土地の名士の気合い、
当主の思いやこだわりが感じられ、そこかしこ、ゆかしくてならない。


      

    


明治中期から昭和に掛けて、人々の気持ちは高揚していた。
新しい世界、新しい文物、時代を先取りし、時代を作る。
伝統によって培われてきた審美眼をもって、家業の傍ら多彩な人々との交流、
藪内流の茶道、牧野富太郎との交流、若き才ある人々を支援する篤志家として、
村の名士は活躍していたのだろう。


              


人が住まぬ家を手入れするのは難しい。風を通し、光を入れ、
そこここに気遣いしながら、調度品を整えるのはなかなか至難の業。
「細かい所までは行き届かなくて」と気にするボランティアの人。
確かに家の中の手入れも大変だが、外回りも大変。
家紋が付いた昔の提灯入れ。女物は蝶のマーク?
吹田で初めて付いたという電話。
モダンなタイル張りの調理台がある台所。当時はどれほど斬新であったことか。


      

    


当時はどんな料理が作られたのか。洋行帰りの身内や知人がいればそれなりに、
目新しい食材や高価なものが供されたのだろうか。
この西尾家は夭折の音楽家貴志康一の母の実家に当たる。
富裕な名士の結びつきから生まれた才溢れる音楽家は、バイオリニストとしてデビュー、
欧州留学を果たし、ベルリンフィルと競演し、フルトヴェングラーと親交を持った。
そんな彼が生まれたこの場所は、当時どれほど華やかな地域の社交の場、
恵まれた環境であったことか。


      

  


階段箪笥があるような和の家屋には、今や使い道がわからないものも遺されている。
ここを市に寄付した代の御当主は、維持費ばかり掛かるこの家を物納、寄付する形で去ったのか。
細かい記録や家に対する愛着は、代を下れば薄れていくもの。
先代や先々代、ご先祖様の土地を守ることよりも、時代の波にもまれて生き抜くことに汲々、
特に大阪は何事も「庶民任せ」の文化果つる地。
最近のお上は文化や福祉にとんと費用を割いてはくれぬ。
地震で傷んだこの家も、修復ままならぬ箇所があちらこちらに。


    


今であれば小さなブレ―カーも、これだけ大きな家となると昔の配電盤は大きい。
民家というには豪勢な広い邸内をひとまず庭に出て、茶室と離れを見学に行くことに。

貴志康一 永遠の青年音楽家

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貴志康一と音楽の近代―ベルリン・フィルを指揮した日本人

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