Festina Lente2

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再び上野千鶴子

私にとっては再び上野千鶴子。講演を聴くのは10年ぶり。
著書は何冊か読んではいるものの、熱烈なファンという訳ではない。
ただ、私よりも少し上の世代の人々にとっては「同志」かもしれない。
私にとっては、遥か先を行く遠い「先輩」である。
賢く強くしなやかな「先輩」である。
余り近付くと、自分自身落ち込みそうになる時もある。


行動を起こせない、起こさない、動きのトロイ人間にとって、
頭が切れ、弁が立ち、行動的で影響力のある人間はカリスマであり、憧れだ。
しかし、そこに(巻き込まれたいと願っても)巻き込まれようのない
頭と体の硬さを持つ自分としては、カンフル注射とまではいかなくても、
清涼剤のように、(彼女には望まれないだろうが)受身で講演を聴く。
聴きに行く、そのことだけが私の唯一の行動だという事が問題点だと
わかっていながら、再び上野千鶴子


なかなか再度、有名人の講演を聞く機会を持つということは難しい。
上野千鶴子、本人の語るところによると、あちこちで敬遠されているらしい。
「危険」な人物として。何の危険なのだろうか。
利害関係のある人や自治体は、さぞかし後ろめたい所だろうという気がする。
意見、考え、理論、訴え、主張、何が飛び出してくるのかおっかなびっくり、
言論統制とまでいかなくても、へエーと思ってしまった。
それどころか、こういう研究会・勉強会の場が「危険な集まり」「危険な集団」
そんな目で見る人々がいること自体、?


研修計画を立て、相談を受ける立場上、ボランティア活動や小学生の親として、
本を読むだけではつかめない事、知りたい事を学ぶために出向けば、
専門的に活動・研究し、学び合う組織そのものが疎まれているとは、
情報を得て、参加している人間にとってはびっくり。
人間にとって、教育や医療の現場にとって必要な事を学ぶのに、
知識や生きる知恵を教え、学ぶ場を軽視する動きがあるなんて、
余りに情け無いと思った。

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?

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生き延びるための思想―ジェンダー平等の罠

生き延びるための思想―ジェンダー平等の罠


産む性、女性であること、産まないという選択、産みたくても産めない嘆き、
子供を持ち、育てるということ。自分の性をどのように受け止めていくか。
男性は子供を産まないから子育てに無関係ということはありえないし、
種を与えることで女・子供に所有権を主張でき、一人前の証明として、
存在価値を持てるというのも? ものの考え方だ。


女性は子供を産むものだから、産めない・産まないのは女性ではないと
貶めるのもおかしい。個人の選択に関して、
「どうして? 何故」と感じることはあっても、何かしようとは思わない。
自分自身の感じる違和感は、「人と自分は違う」所から発生する。
自分とは異なる意見や考えを持つ人間を、排斥しようとは思わない。
最初から何も聞かないではまずすぎる、でしょ。


それでなくても、結婚したら(女性の側が)仕事をやめるべき、
夫婦は同じ姓でなくてはならない、それも男性側に改姓すべき、
そういう理不尽さにうんざりしてきたから、社会学理論武装でもって、
みんなにわかりやすく、「搾取」とは何か、ジェンダーとは、
バックラッシュとは、男女共同参画とは、権利とは何かを、
様々な切り口で持って語られるのを聞くのは、新鮮な学びなのだ。


何故なら、仕事を続けたくてもやめざるを得なかった人、
産みたくなくても産まざるを得なかった人、
男女雇用機会均等法に踊らされて過労死、自己否定感の増大、
(上手く行ったら自分のせい、失敗しても自分のせい)
高学歴社会のワーキングプア化と格差。
どの話題をとっても自分や家族、娘に無関係なものは無い。


社会がどんな仕組みを持っているのか(人によって枠組みの捉え方は異なる)
父母、祖父母は、上の世代は何に苦労し、何に躓き、虐げられてきたのか。
個人の問題なのか、社会の問題なのか。自由? 成り行き? 統制?
適齢期をクリスマスケーキと言われ、売れ残りの半値と叩かれ、大晦日と馬鹿にされ、
結婚・妊娠・超高年齢出産、その先。


娘の仕事を支える背景には母親の怨念という説にはうなづける。
手に職を、組織で働き弱者を踏みにじる経済学部・工学部系統ではなく、
法学部・医学部系へという流れ。個人技なら生き抜けるか、未来?
他人事でなく身につまされる。
組織でありながら個人技の効く職業を選ぶ。選択肢は少ない。
教師にせよ、看護師にせよ、師範学校と白衣の天使、
良妻賢母の呪縛から逃れることができないまま奉職、
そういう世代の溜息とあがき、絶望が垣間見える。


身につまされる講演を聴く。普段忘れていた、意識しないで過ごしてきた、
忘れているふりをして仕事をしてきた、そういう生活の断面を、
社会学者、上野千鶴子が料理する切り口の断面を見る。
本を買う。浅ましいながらもサインを頂く。
ジェンダーを避けて通る事はできない。意識せずに済ませることもできない。
自分が「連帯」できる気力があるかどうかは別として、
話を聴く。聴きに出向く。これが今の私に精一杯の行動。


10年前に阿南で聴いた講演と重ね合わせて、そう遠くはない自分の老後、
娘の成長に伴う苦労をチラリと思いやる。
あの時赤い上着を着て話していた彼女は、夏の日の今日、
上着を脱いで、赤いタンクトップで 壇上の机の前ではなく、
みんなの前に立ってマイクを持ち、全身を使って2時間話し続けた。
小柄な体にエネルギーを漲らせて。
非力な孤独の怖さをよく知っているからこそ、
連帯への「誰も一人にはしない」意気込みで語り続けた。


不景気な今、弱者を守る法律、ザル法ではない法を求めて、
世の中の仕組み・繋がりの大切さを求めて、語り続けた。

おひとりさまの老後

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当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

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