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デルス・ウザーラ Derus Uzala

本来ならばBSを見ることができない週末のはずだったが、
予定が狂って実家にいる。
そのお陰で、黒澤映画の異色作品といわれる、
デルス・ウザーラ Derus Uzala』を見ることができた。
名前だけは知っていたが、実際の作品を見ることはなかった。
とうとう、この年まで私の中では「幻の映画」だった作品に、
今日まみえる事になろうとは。


まだ高校生だった自分にとって、黒澤が何なのか、
全くわかっていなかった若い頃、映画は洋画中心、
邦画には興味がなく、黒澤映画は『7人の侍』ぐらいしか知らなかった。
通学電車内の『デルス・ウザーラ Derus Uzala』の広告は、
老人の顔ばかりがやたら目立ち、自然と共に生きる主人公の素晴らしさは、
私にとって心を揺り動かす素材ではなかった。
それに高校生如き、そうそう映画を見に行けるものでもなかった。


まことに「若い」ということは、無知で味気が無いもの。
正面からしか物が見えない、裏を探って想像する事も出来ない。
底の浅い若者の感性から、『デルス・ウザーラ』は全くの大人の映画で、
太刀打ちできなかったのだと、今の私にはわかる。
65歳の黒澤監督が、自分の老いを意識しながらデルスを見つめていたのは
確かだったはず。そういう物の見方が出来なかった「がきんちょの私」には、
理解することの出来ない、早過ぎた映画だった『デルス・ウザーラ


今この年齢だから、自然の中で生きてきたデルスの生き方に、
どれほど黒澤監督が惚れ込んでいたか、ソ連の大地と自然を撮ろうとしたか、
今この年齢になったからこそ、わかるような気がする。
本を読もうにも字が見えず、根気も続かない。
何時間も机に向かっていても飽きなかった事も、今は辛い。
あれほど嫌だった外食も、時間節約の為に平気。
便利で楽な生活に慣れ切ってしまった今の自分に、
仕事でもプライベートでも疑心暗鬼に陥ってしまう位、
「許せない」一線を引いて、綱渡りしている自分に、
なかなか耳に、目に、心に痛い映画。
デルス・ウザーラ』。

おれ にんげんたち―デルスー・ウザラーはどこに

おれ にんげんたち―デルスー・ウザラーはどこに

20世紀 夜明けの沿海州 デルス・ウザーラの時代と日露のパイオニアたち

20世紀 夜明けの沿海州 デルス・ウザーラの時代と日露のパイオニアたち



ブックエンド形式で回想される映画。旧友デルスの墓は、
開発の波に埋もれ、伐採された森が跡形もなく消えた彼方。
ロシア人将校は、彼を失った時と同じ、いやそれ以上の悲しみに
再び襲われて、デルスと過ごした森での日々を思い出す。
故人への追慕や敬意、過ぎ去りし日々への追憶。
日露戦争の期間を除いて踏査された、ロシアの大地。
タイガを旅する一団に、現地を生き抜いて来たゴリド人猟師、
デルスが加わり繰り広げられる森での日々。


当時、森ばかり歩き回る老人猟師がクローズアップされる映画。
静か過ぎて盛り上がりがなく、どこを楽しめばいいのかわからないと評された。
一部の人間には熱烈に受けたらしいが、ソ連ロケを敢行して製作された
今回の黒澤映画は何が言いたいのか、躍動感もなくわかり辛い観念的な映画だと。
そういう映画評を聞いていたので、デルス・ウザーラの世界は、
ただでさえわかりにくい映画なんだという印象が強いまま、この年まで来ていた。


何しろ黒澤映画をリアルタイムで見たのは『夢』。
観念的な世界がファンタジックに描かれた。
まあだだよ』の大人の童話のように滑稽で、
ペーソス溢れる、賑やかな懐かしさ、切なさで。
デルス・ウザーラ』はそれに比べて、ステレオタイプな文明批評、
20世紀を、開発の進みすぎた時代を、少数民族蔑視を、
静かな批判を至る所に散りばめた作品だと言われていた。


でも、それは違う。観ていて感じた。この心の繋がりを、
ロシア人将校とゴリド人の老猟師との交流を描いた背景を、
森の人は都会では生きられないという単純な図式の中に求め、
一方的に閉じ込めてしまっていいのだろうか。
ロシア人将校の視点に立ってみると、デルスの言動によって目覚める
自分自身の新しい部分が見えてくるような気がする。
謙虚で優しい、自然にも人間にも真っ直ぐな、
デルスの精神性に裏付けられた経験と技が、
自分という人間を心豊かにしてくれる、
そんな時間を共有しながら物語は進む。


将校と共に、私もデルスに癒されている。
その人間らしい人間性、ユーモア。愛情表現、哀しみや怒りに。
見知らぬ他人にも目の前の人間にも親切な、慎ましやかな親愛の情。
悪意や搾取、偽善や虚偽に対する無垢な怒り、無私な誠意。
そういう生き方を学ぶために森から使わされた精霊のような友人、
デルス・ウザーラ。厳しい自然環境、タイガにあって、
自己肯定感・自信に満ちて行動する人。


天然痘に罹った妻子が、村人に家に火を放たれ生きたまま殺されたという、
余りにも厳しい凄まじい思い出話。森の人々の暮らしの現実。
その悲しみを川べりで語る姿に、心打たれる。
野山を罠だらけにされ乱獲される動物たち。
関係ない動物を殺す狩のやり方に憤る姿に、
命に、仕事に対する哲学が見え隠れする。


映画を見ながら様々な発見がある。
それを、単純に4文字熟語や金言・成句的な教訓に、
人情話だけに置き換えていいものか。
心惹かれたのは、どの部分か。悲劇の結末だけではなく、
どの部分なのか・・・、色々考えさせられる。


映画の面白さは人の評や、一般的な解釈とは別に、
様々な発見が出来るから楽しく面白い。
そして、それは森に住むから見出せることではなく、
自分が与えられた環境で生きていく限り、
何と、誰と、どんな会話をし、何を思い定め、対処していくか、
それはどこで生きていても、同じ。


仕事の中でも、家庭の上でも。創り出すことは発見すること。
共に在る時が楽しければ楽しいほど、
あるものから離れて、寂しく惨めな自分が辛い。
猟師としての誇りが目と銃の腕前にあるだけではなく、
人間として生きていくこと、生活するということ、
生活を創り出していくことに、
(または創り出せないことに)はっとさせられる。
頭でわかっていても、納得しきれない思いに気付かされ。
・・・気付かされ。


ステレオタイプに観てしまうことを恐れなくても、
自分の年齢で見える物を見えればいいのだと思いつつも、
どうして『デルス・ウザーラ』でなければならなかったのかと、
その創作背景に思いを馳せると、切ない。
主人公から何を学び、発見しようとしていたのか、
名監督としての地位を確立していながら、更にまた、
何かを追究しようと意気込む、そのひたむきさに心打たれる。
今までは違う角度で自分の世界を作り上げたことに、
そういう黒澤監督自身の姿と、森で生き抜くデルスが重なる。


今日は観る予定ではなかった映画を観られた。

デルスウ・ウザーラ―沿海州探検行 (東洋文庫 (55))

デルスウ・ウザーラ―沿海州探検行 (東洋文庫 (55))

デルス・ウザーラ モスフィルム・アルティメット・エディション [DVD]

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