Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

枠組み構造の魅力

昨夕車に乗せた同僚から礼を言われた。律儀なものだ。
と思ったら、近所で銀行強盗があったとのこと。
そういう現場の近くを通らずに帰れて良かったという。
ええ? そんな事があったの? 今朝もカラーボールの跡が?
物騒な世の中だなあ。まあ、金銭的に世知辛い昨今、
年度末ともなれば年末同様何かと物いりで、
やけを起こして手っ取り早く金を奪おうと思う輩も。


そんな強盗ニュースを聞いたせいか、
転寝の夢は鞄から財布を盗まれるという縁起でも無い夢。
如何に私の脳みそが周囲の情報に影響を受け易いかだねぇ・・・。
しかし、そういう風に目から耳からの情報があるからこそ、
驚いたりがっかりしたり、笑ったり人知れず泣いたり出来る。
現実問題、色んな人とお付き合いする訳には行かない。
「袖触れ合うも他生の縁」とはいうものの、ご縁は待っていても来ない。
自分で作らなくては、にっちもさっちもだ。


異業種交流とかいう言葉があるそうな。
私の業界はどうしても同業者が集まりがちで、
同じ穴の狢だったり、同じ匂いがするといった感じで、
どうしても「目からウロコ体験」のような刺激は少ない。
本当にごくたまに、アハ体験ではないけれど、へぇー。
いい意味での刺激であれば尚更だけれど、はぁー・・・。


そんな私はメル友だのバーチャルなお付き合いを、
過信してはいけないと制止する側でありながら、
どっぷりはまっているような気がする。(苦笑)
といっても、携帯は使ってはいないけれど。
私のバーチャルなお付き合いは、文学少女の片思いにも似て、
読書で「本の世界」のめり込むように、ブログやHPを覗いてみては、
浸ってみる、その程度なのだけれど・・・。


それでもそれなりに出会いがあって、感激も喜びも温かみもあって、
ROMだけでも嬉しさ寂しさ、自分なりに感じ入って、
一人相撲のように感じる時もあるけれど、
いやいや、どこかで目に見えない繋がりがあるというものだよと、
心密かににんまりしてしまっている自分がいたりして、
なかなかに滑稽で面白い。
バーチャルな、それこそ感覚的異業種交流のようなもの。
ま、一方的な訪問は覗き見に近いのかもしれない。
あちこちさまよっていたり、定点観測だったりする・・・。

複雑さに挑む社会心理学―適応エージェントとしての人間 (有斐閣アルマ)

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クラウド化する世界~ビジネスモデル構築の大転換

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うーらのオーガニックレシピ手帖 (エンターブレインムック)

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物語の世界はカウンセリングの世界と似ていて、語るか語られているか、
その世界は枠組み構造に守られている。本や映画の世界は安全。
その架空の物語がどれほどのリアリティを持って表現されていても、
自分自身が鮮やかにその世界を生きたとしても、
歴然とした枠組み構造があって、個人の想像力を補って成立する架空の世界、
歴然とした枠組み構造の中に納まっている世界である限り、
読者や観客には安全な物語世界だ。


時々心のバランスが崩れたり、影響力が大きすぎるときはそれなりに侵食され、
侵襲性の高さによっては、精神が喰われてしまう事もあるけれど、
必要以上の熱中でなければ、読書はエネルギーを使う割りに、
表立った激しい消費を周囲には見せないところがある。
枠組みの向こうの物語は親しげに、麗しく語りかけて来る。
馴染み易い、憧れの、懐かしい景色・風景・色、世界、出来事。


はっと気付くと、自分より若い方々のブログは仕事を中心に読む事が多く、
自分より年配の方のブログは、趣味や生活を中心に読む事が多い。
よくよく考えてみると、後輩の殆どいない職場なので、
無意識のうちに若い人々のエネルギーに触れたいのかも知れず、
母と会話が無い分、学べる・教えを乞える親の世代を求めているのかも。
自分の仕事と比較し、若い頃を、過去を振り返るために。
これからの残された仕事時間への還元を図るため、新しい情報を。
先輩方の悠々自適の生活や目標・豊かな趣味・広い視野が、
私の道しるべになってくれる。


美味しいお料理の写真・レシピを見る度に、
こういうものを母から教えてもらう時間もなかったなあと残念に思い、
手仕事、庭仕事、徒然の筆のすさびん任せるもの、
読書、旅行、パソコン、種々様々な刺激を与えられる。
もしも親が元気ならば、仲の良い友人が側にいるならば、
こんなふうに情報交換したり、日々の生活の中で行ったり来たり、
もしくは子育て談義に、知恵を貸してくれたりするのだろうか。


思えばパソコン通信の時代、画像も何もありはしない頃、
妊娠中の不安から出産後の様々な相談を、それぞれのフォーラムで
相談して情報をやり取りしていたっけ。
面と向かって相談する相手もいない産休・育休中。
誰も知っている人のいない土地。電話代は高くついておしゃべりは出来ない。
今から思えばその頃から、バーチャルな関係、
パソコンの枠組み構造の中に取り込まれていたのかも、ね。


本を読む。音楽を聴く。それ以外に面と向かって、生身のお付き合い。
・・・ではなくて、バーチャルな関係。ある意味一方通行に+α。
このαがどれほど付加価値を持っているか、それぞれだけれど、
バーチャルだからこそ、生身のお付き合いよりフェイドアウトも、
身を引く事も現実よりも簡単で楽かもしれないけれど、
その枠組み構造の中に守られているからこそ、
知らない世界を掬い取る事も出来る。


五体満足でも、何処までも出かけていくことはできない。
時間も何もかも限られている。
毎日が深い哲学的な読書で、示唆に富んだ、思慮深い行動に支えられ、
言葉を紡ぎだし構築されるような形而上学的な日々を送っているわけではない。
日々の事を、にちにちの事を当たり前にこなすのも切ないほど、
疲れていたり苛立ったりする、更年期ソケットのようなものに落ち込んでいる。


だからこそ、外の世界は眩しくて刺激的。枠組み構造に守られつつ、
無限の紙芝居のように別世界を覗き込む事ができる。
そういう世界を探して選んで見つけて旅することができるのは、
本屋で偶然1冊の本に巡りあい、じっくり読み進めていく楽しさに似る。
バーチャルな世界を読み進む事も、読書をするような楽しさを持つ。
これが罠のような毒かもしれないけれど。
ケータイ小説は読まなくても、ゲームに手をつけなくても
パソコンにはまっているじゃないかと言われたら、
確かにそれはそうで。


誰かと一緒にいたい、そんな世界の広がりを求める気持ち。
何か新しい事を知りたい、美しい景色を、元気の出る言葉を、
同じように仕事や育児で落ち込んでいる愚痴を、
ちょっとしたニュースを、小耳に挟むように読む。
そんな枠組み構造の重なる世界、小世界の前に今日も佇んでいる私がいる。
袖を触れ合うことは出来ないバーチャルな世界ではあるけれど、
そこにはルールも思いやりも共感も、驚きも喜びもある。
様々なものは生身の世界でも隠されている。


同様に枠組み世界の中にも。
ご縁は向こうからはやって来ない。自分から近付いていくもの。
本を手に取るように。映画館に足を運ぶように。
そして、縁は異なもの味なものの世界に首を突っ込むことができる。
そんな世界の前に今日も私は座って額縁を覗いている。
小さな世界を読んでいる。鑑賞している。味わっている。
そして、思い出す。I'm here!と叫んでいた景色を。

情報って何だろう (岩波ジュニア新書)

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