Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

命のつながりを伝えたい

午前中、静かな一室で簡単な研修を受ける。
こんなに大勢来るとは思わなかったと説明役の看護師に言われた。
外国と同じように、対面式の診察台。
ここには医師や看護師の顔を隠す覆いはない。
自分の体を診察する器具や薬剤、超音波も、
医師の診察机も、何もかも見える。
隠されていないこと、オープンであること。
自分の体を自分で知るためには、秘密裏に、
誰に何をされているかわからない状態で、
診察を受ける状態であってはならない。
だから、この部屋はそういう造りになっている。


男性が診察を経験することの無い部屋。
男性がどのような診察を受けるのか、自分自身は体験できない部屋。
男性が医師として診察する事はあっても、
患者として診察を受ける事などはありえない部屋。
そこで診察を受ける事は、どんな気持ちなのか。
どんな感触、どんな雰囲気、どんな?
医師に診察される事は、当たり前のこと、
でも、恥ずかしいこと? 怖いこと?
その気持ちはどこから来るのか。お互い信頼のもとの医療行為。
それはどういうところから生まれてくるのか。


明るいピンクの内診台、エコー、ベージュの物置、バスタオル。
お湯で人肌に温められているクスコ。綿球。
オートクレーブの使い方、アルボース液、摂子、紙シート、
知っているもの知らないもの、目にした事はあっても
一つ一つをしっかり把握していたわけではないもの。
診察の手順、アシスタントの役目、準備と後片付け、
がん検診、固定液、スライド、ホルマリン容器、
一つ一つを手にしながら、実際の診察場面を想定。


利用者が主体的に医療を受けるという事は、どういうことなのか。
それをサポートするという事は、どういうことなのか。
2時間足らずを最後まで聞くことが出来ずに、次の現場へ急行。
医療現場の清潔・不潔の概念の講義は次回に。
外から入らないようにするという事は出て行かないようにするということ。
感染に注意するという事は、自分自身に対してもそうだということ。
当たり前のことだけれど、日常とは違うレベルで意識する必要がある。
最後までしっかりゆっくり聴き取ることが出来なくて残念。
今日は予定が重なってしまい、ある意味、不本意

産科医が消える前に 現役医師が描く危機回避のシナリオ

産科医が消える前に 現役医師が描く危機回避のシナリオ


久しぶりに南海本線。もう少しで和歌江山という大阪のはずれ。
各駅停車で殆ど降りる人もいない昼下がりの駅。
天気予報の寒さとは裏腹に、南国を思わせるような青空が広がる。
この道をもう10分も歩けば、海が広がっているはず。
その手前の小高い丘のふもとの小さな公民館。
殆ど人はまだ来ていないようだった。


どうしても来なければならなかった。
木原雅子の講演を聴くために。
「子供を取り巻く豊かな人間関係の再生に向けて 
 〜インターネット社会の大人の役割〜」ですもの。
「思春期の子供を持つ親と教職員のために」という一連の公開講座
こういうものがあるのを知らなかったけれど、
思春期の入り口に立つ娘を持つ人間、WYSH教育の理念に思う所、
多々ある者としては、予定が重なろうとやりくりして聴かなくては。


いじめや学級崩壊の兆し、楽しくない学校、面白くない授業、
思春期の入り口に差し掛かり、心や体の変化に戸惑う本人、
自分達の時代とは異なる環境の中で成長する娘、
血を分けたとはいえ他人である娘の変化に戸惑う親。
そんな私は、自分自身のためにもこの講演を聴きたい。


外遊びの経験、褒められた経験の少ない今時の子供、
やる気が起こらず、眠れなくて、何となくいつも苛々して、切れそう。
精神的に不健康な状態にある今の子供たち。
30年前、親の世代と比べて人付き合いが下手で、
ストレスをため易く、親は自分の気持ちなんかわかっていないと
感じがちな子供が増えている時代。


ゲームや携帯で独り遊びとリセットを繰り返してきた子供は、
簡単に消すことの出来ない物が実は自分の気持ち、
取り返しのつかないのは、自分の心と体を取り巻く今、
この時だということに、なかなか思い至らない。
何度でもやり直せる、たいしたことは無いと、
バーチャルな感覚で物事に取り組むのか、
そういう精神状態になってしまっているのか。


何も感じていないというよりも感じるセンサーが落ちていたり、
上手く機能していなかったり、ずれていたり、
きちんと調節されていなかったり、妙に過敏だったり。
空調が効き過ぎて自分の体でコントロールができない、
洋服を脱ぎ着して調節する事も出来ない。
熱い寒いに必要以上に弱く、苛立ち、文句をいう。
自己肯定感も低ければ、万能感覚も生まれてこない。


思春期の頃、若い頃は時間が無限にあって、
頑張ったり努力したり、隠れた能力が目覚めて、
何か出来るのではないかという、夢のようなとまでは行かなくても、
未来に広がる漠然としたものを期待しながら生きていた。
そういう明るい自己肯定感や何かが出来そうな感じ、
そんな感覚から程遠いところで、今時の若者は傷つき、だれて、
やる気をなくして、自らをリセットできないことに苛立っている。


自分の体で覚えたこと(または覚えなかったこと)、
経験した事が、何もしてこなかったこと、
自己承認どころか他人にも褒められたり叱られたりした経験が、
どんどん減っていることだというのだから・・・。
そして会話が増えているようにみえて、実は疎外感は大きいらしい。
今時の子供と親は、会話時間があるように見えて中身が無い。
どうでもいいことで時間つぶし、ごまかして生きているということなのか。


思春期の入り口に立つ娘を持つ身にとって、
仕事をしている人間にとって、それなりに学んできたはずの者にとって、
「きちんと向かい合って聴く」ことの大切さはわかっているはずなのに、
実は出来ていない。親としては忙しいのを理由に、どこか手抜きしている。
データからどきりとさせられる。
そして、数々のビデオ映像の中の、不機嫌そうな子供たち、
若者達の真剣な眼差し、嬉しそうな顔、心からの笑顔を見るにつけ、
自分の娘のこれからの成長を思い、自分の昔と照らし合わせ、
不安になり、しみじみとし、涙がこぼれ・・・。


講師との小さな茶話会で、何故この講演を続けているのか、
これからも続けていくのか、その背景と決意のほどを知り、
再び切なくなり涙が零れた。
親として、母として、子供にどう接するか。
職業を持って生きてきた後姿を見せることと、
親として慈愛を持って、厳しく見守ることとは違う。
日々の中で傷ついた心・失敗を受け入れ、
待つ事を諦めずに寄り添っていくことの難しさ。


私は夢見る。WYSH教育の波に乗って、
笑いさざめきながら思春期を過ごす娘の姿を。
そんな日であって欲しいと、そんな日々を過ごして欲しいと思いつつ、
木原雅子の講演を聴いた、今日。

10代の性行動と日本社会―そしてWYSH教育の視点

10代の性行動と日本社会―そしてWYSH教育の視点

思春期の性-いま、何を、どう伝えるか

思春期の性-いま、何を、どう伝えるか