Festina Lente2

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映画『食堂かたつむり』への違和感

娘の音楽教室の進級試験。初めての場所で親子共々、少々緊張。
課題曲のうち、不得意な曲を指名されたよう。
以前、得意な曲が当たって楽をし、期待していただけに、
今回甘く見たのか、練習もいい加減だったのか、意気消沈。
親の欲目で見ても、上達の速度は遅い。
ピアノに、音楽に向いていないというよりも、
なんとなく練習レベルでは、到底一段階上に行けない壁。
誰でも経験することだが、これを乗り越えないと根本的に上達はしない。
娘がぼやこうと嫌がろうと、ある一定レベルまで頑張る経験をさせたいと、
親の願いが勝る今日この頃。


昔のように、○○の曲が弾きたいという情熱よりも、
流行曲のメロディばかり、なぞるようになって来た。
それはそれで構わないけれど、きちんと弾くとなると
スポーツでも何でもそうだが、ある一定の「型」を覚えなければ、
その先には進めない。飛び級で進むというわけにはいかない。
気分任せの適当なテンポ・タッチ・強弱で弾いては、
曲風が把握できず、乱れ崩れる。
曲想・曲風をイメージできる年なのに、何となく弾いているだけでは・・・。
頭ごなしで叱る年齢ではない。
自分で曲を掴もう、イメージしなければ。


とにかく結果はどうであれ、試験は終わった。
気分転換に予定していた『食堂かたつむり』の映画へ。
元より主演は気に入らないが、原作は気に入った内容だったので、
思い切って出向いたが、失敗。これではなあ・・・。
案の定、客寄せパンダの役者の個性に食われた上に、想定外の演出。
騒々しい音楽、サイケデリックで漫画タッチなお涙頂戴。
もう少し穏やかに繊細に物語を映像化できなかったのかと、情けない思い。
ちょっとばかり期待した私が馬鹿だったか。
以下、簡単に個人的な第一印象。


集客ラインが10代から20代がターゲットらしい。
到底、30代40代の目から見ると物足りない内容。
それは、もっともリアリティを必要とする部分を、ばっさり省略して、
単なるファンタジーに仕立ててしまったから。
親子の葛藤も、恋人からのひどい仕打ちも、近所からの嫌がらせも、
愛するものを手に掛けなくてはならないことに向かい合う辛さも、
「死を無駄にしてはいけない」というメッセージも、
母親からの手紙も、何もかも肝心な部分を省略し、甘い演出に走ったから。


映画の中で表現しにくい、原作のどろどろした部分をどのように持っていくか。
それこそが演出の見せ所だったのに、作品から逃げたという印象が否めない。
人生経験、例えば辛酸という言葉に相当する経験、単調な繰り返し、
いわれの無い誤解や偏見、そういうものを経験した人間の視線からは耐えられないので、
当たって砕けろが怖いので、最初から何もしませんでした。
そんなふうに曲解したくなるほど、作品の読み込み方が違うのだと、
映画を見て改めて思った次第。


もし、高度な癒しのレベルを求めるならば、諦めた方がいい。
あっけないほどしょうもない、高価な絵本のような仕上がりだ。
まず、役者そのものが自分の外見をなるべく変えないように演技している。
ばっさり髪を切って、役柄に入り込む、その気構えがなく、
自分の個性を変えないように演じたい、そういう作品に見える。
それでは演技にならない。
長い髪をばさ付かせて料理する姿は不潔で、
自分で捌かず調理する姿は、滑稽でさえあった。


西の魔女が死んだ』の時のような、しっとりとした映像でもなく、
紙芝居めいたけばけばしいCG、原作と異なる設定、
大筋は大体合っているもののやはり配役ミスでは?
余りにも俗悪な演出、肝心の料理が今一つ。エピソードは大切だが、
ストーリーのもう一つの主役、料理をもう少し丁寧に見せても良かったのではないか。
最後のお約束、泣かせる設定。ルリコ母さんの遺書も肝心の台詞がカット。がっかり。
原作に思い入れがある人間は、映画はパスした方がいいかも。

([お]5-1)食堂かたつむり (ポプラ文庫)

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食堂かたつむり コミック版

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もう少し、詳しめに感想。思いつくまま書き殴り。
集客パンダとしての柴咲コウは、
妙に個性的過ぎて、作品の主人公のイメージに合わない。
特に長い髪の毛のままの演技は許せない。
これはやっぱり、バッサリと髪の毛を切るシーンがなくてなならない。
おくりびと』で、いい味出してた余貴美子は、役柄上の演技としても、
平面的でべったりとした演技・雰囲気でがっかり。
熊さん役は予告編だけ見た家人から言わせると、不潔な感じ。同感。
お妾さん役の江波杏子は秀逸。口元がアップされる食べる演技は、さすがに上手い。
そして変身後の姿のあでやかで粋なことも。
シュウ先輩役の三浦友和は『三丁目の夕日』以来、妻に先立たれる医者役が多いような。
彼はそれなりにいい味を出していた。

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屠殺のシーンを全く見せなかったのは製作の関係上、
仕方が無かったのだろうけれど、余りにもお任せで最終章になだれ込んだ。
ファンタジーファンタジーし過ぎている豚のエルメスと、
親子関係の改善場面が俗悪すぎて付いていけなかった。
豚のエルメスは、倫子が居なかった時はるり子にとって子どもであり、
倫子が戻った後は、上手く伝えられないまま肥大化した
娘への愛情の具現化であり、ルリ子結婚式の場面では、
血となり肉となって全ての人に分け与えられる、ルリ子の思い、
愛情そのものであるから、もっと生々しく関わった方が良かった。


最後の最後で、凄まじい世の中を綺麗事のオブラートで包んで、
どうするという感じで、尻切れとんぼのまま作品が終わってしまった。
色んな演出があるだろうけれど、斬新さが俗悪な感じ。
無論この手の演出が好みという人には、ぴったりはまるのだろう。
娘の好きなNHKの「シャキーン」の関係者が製作と知って、納得。
娘のツボには嵌っていたようだ。これはもう、世代の差か。
「大人の絵本」のような雰囲気に仕上がるのならばともかく、
「ドッキリカメラは実はいいこともしてるんですー」的な物言い映画。
導入部はあからさまな俗悪さで興味関心を引き、その対比として
ファンタジックな映画的手法でその後を描いてみせるという演出は、
現地ロケの意味と魅力を半減させるCGに潰された印象が強い。

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食堂かたつむり』読書後、私自身しばらく人と話すのが嫌だった。
「声が透明になる感覚」に感情移入し過ぎたらしい。
料理が好きな人間にとっては、数々のメニューは刺激的だった。
新鮮な食材は街中では簡単に手に入らない。
野菜のうち幾つかが手に入っても、乳製品や肉や魚は無理。
何でも、この本を参考にしたお料理本が出ているらしいが、
まあ、そこまでこの作品に思い入れが強いわけでもない。
映画化に合わせて本が出、、無闇な商売っ気を感じて
あざといなあとうんざり。


この物語は、傷ついた人が癒される過程が肝心。
心や体の傷は、人によって異なる。
それこそ味覚のように、五感のように。
だから、同じ材料で作っても全く同じ味にはならない。
同じ味を出すつもりでも、同じ料理になるとは限らない。
人は自分の心の中に思い出を隠し持つ。
幼い頃の記憶は味や香り、舌触り手触りで蘇る。


料理は思い出を活性化させる。
こわばった体に脳に届く信号を生み出す。
「美味しい」という喜び、「初めての味」という新鮮さ、
「懐かしい味」という郷愁、「満たされた」という感覚。
料理を味わうことは体全身で味わうこと。
料理を受け止めた自分を再体験することだ。


自分が料理を作っていても、しっかり味わうことが出来なければ、
自分自身の味を維持することはできない。
その時その時の行き当たりばったりでしかなくなる。
季節を時の流れを、旬の実りを味方にするように、
食材その物の旨みを引き出すだけではなく、
受入れる人の体そのもの、体調・年齢・性別・その他諸々、
様々な要素が交わって、料理を堪能することが出来る。
味わうことができる。創って行くことが出来る。


食材を自分で作ることも無く、捌くこともなく、
育てたものを失う痛みを引き受けることなく、距離を置いて
単に「ペットだった豚を食べるなんてかわいそう」
「何で母親の形見と大切に暮らさないんだ」という意見も多いらしい。
人それぞれだけれど、そんな甘いファンタジーで生きていけるわけが無い。
夢見る頃を過ぎても、夢を見ていたいという気持ちで現実を生きていくことと、
夢を見ている状態のまま、現世をすり抜けていきたいというのは、違う。


ペットであり豚だ。豚でありペットだ。
ペットならば食べてはいけないのか。ペットだから食べてあげたいのか。
映画では捌く場面が出て来ない。おまけに豚に乗った花嫁シーンまで。
お涙頂戴のファンタジー画面に仕立てるのは、容易い。
原作を読んでいない娘はこのシーンで大泣き。
気持ちは分かるが、少々苦々しい。
問題は母の死も恋人の失踪も含めて、喪失体験ををどう乗り越えるか、
長年の葛藤、恨みつらみ、思い込み、確執を、
どのように解決していくか、にある。


ペットだった豚が食べられないからこの作品は許せない、で
感想が終わるとしたら、余りにも作品にファンタジーを求め過ぎていて、
現実が直視できないことになる。『豚がいた教室』でもそうだったが、
現実問題「豚が飼えない」状況が来た時、どうするのが一番いいか。
現実との折り合いを付けていくすべを示唆する、
内包する作品が望ましいと感じる。
母の形見の豚と一緒に暮らしましたとさ、で終わってしまっては、
主人公の成長や乗り越えるべき課題は放棄される。


かたつむりの歩みは遅い。されど、歩けば前に進む。
後退しているかたつむりの歩みなど、見たことが無い。
おっとり、のろのろ、ぬめぬめと前に進んでいるではないか。
食堂かたつむりは、パンフレットや映画のイラストの中に封じ込められた、
食材と夢だけを内包しているのではない。
人がその内に抱えて生きていかねばならないものが、
どれほど大きいか、その事を無視して癒されたいのならば、
この映画のもって行き方は、食材と料理に「魔法のような癒し」があると思うならば、
(観た者が単純にそう受け止めたとしたら)それは間違っている。


生きる為に食べるのだ。生き延びていかなくてはならないのだ。
先に逝くものは逝く。残されたものは生きていかなくてはならない。
生きる為に食べるのだ。ファンタジーで善意で何もかも乗り切れるのではなく、
生活する本人の気持ちの切り替えが無い限り、生きる為の料理は出来ない。
久しぶりに娘と二人きりで映画を見たが、安易な映画の作り、
このファンタジーの来し方行く末を思い、少々複雑な思い。
食堂かたつむり』原作が気に入っていただけに、
ペットの豚を食べてひどい!の意見の多さと、
この映画のファンタジー観には違和感。やはり、世代の差か。
・・・つまらないものを観てしまった。

食堂かたつむりの料理

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