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バトンをつなぐ?

娘の5年生最後の授業参観。去年の今頃は二分の一成人式だったのに、
早いもんだ、もう5年生もあと一ヶ月もすれば終わりだよ。


娘よ、すまない。君には負担ばかり掛けている。
かーちゃんは仕事でも私生活である家庭でも余裕がない。
小学生の君に「自分のことは自分でやって」で、ほったらかし。
世の親はもっと手も口も掛けているんじゃないかと思うが、
この年度末の慌ただしさ。頭も体も回らないかーちゃん、
今日の授業参観もやっとのことで駆けつけて見れば・・・、
相も変わらずだれが誰だかわからない。
保育園の時は誰それのおかーさんとめぼしも付いたのだが、
今では同じクラス何だか、前回挨拶した人だったか、
それさえも、全然。


松葉杖をつけるようになったから、とーちゃんもリハビリを兼ねて、
歩いて来るかなとお誘いしてみたが、断られた。
まあ、それは想定内のことではある。とにかく、急げ。
小学校の前は大混雑。車は入れない細い道に、自転車ぎっしり。
おまけにどう見ても「お母さん」に見えない人いっぱい。
私の頭の中は昭和モードなので、今時の若いお母さんの、
学生にしか見えないような若作りのファッションや、
子供そっちのけにしてお喋りに打ち興じているジモティ同窓会ママ友、
授業参観中にケータイが鳴ってしまうという有様に付いていけない。


高齢出産でジモティではなく知り合いが殆どいない、
保育園時代の顔見知りがいたとしても、繋がってはいない、
そんな浮島のような心境で毎度毎度教室に放り込まれるたびに、
いや、辿り付く度に横にいるとーちゃんの存在に感謝していたのだが、
今日はそういう味方も無く、教室の後ろに立ちんぼうである。
罰を食らって立っているわけではないが、そう感じるのは、
ほぼ徹夜明けで眠くてたまらないコンディションのせい。


本日は道徳。道徳? そういう言葉が日常生活から消えて久しい。
小学校ではまだ道徳の授業なるものがあるというのが、驚異的。
マナーモードに切り替えることさえ出来ないケータイママが控える教室、
ケータイを持つが故に繋がっていると確信している人間からは、
原始人扱いで横並びではない自分はある意味心安らかに、
必要最低限の付き合いの中で、古めかしいやり方で存在している、
全盛期の異物、いや、遺物。その心境になりつつ立ちんぼう。


本日は道徳。お題は「バトンをつなぐ」。大体見えてきた。
5年生の子供たち。6年生からバトンを貰う。
運動会のバトンではない、どういう意味合いでのバトンか。
なるほど、これを個人とグループと両方で考えさせるのか。
さすがに高学年ともなると、授業の組み立てが複雑だ。


ちなみに、かーちゃんは日常生活の中でどのバトンを誰に渡せばいいのか、
わかっているけれども早く走れない。
やっと走ったのに、渡し損ねて落としそう。
もしくは、コースど真ん中でこけてしまっている。
そんな感覚で毎日を綱渡りしている。
かーちゃんがねくたれているのは、もうバテバテだからなんだ。
話したり遊んだりする時間も無くて、ごめんよ。
授業参観中、頭の中は目の前の風景と心の中とスパイラル、
二重螺旋構造、単に混乱している、交錯するあれこれ。


走る気力も体力も、日々失せつつある中で、
年度末、走り切ることが出来るかどうか、
転勤の話もなく、新しい展望も無い、職務内容ばかりが増えていく。
椅子とりゲームで毎回罰ゲームを食らっているような、
頼まれ易い? 使われ易い? 望まれるうちが花? 
自分がだんだんただの「コマ」、そんな思いに苛まれ、
損な役回りで同じ給料? 足元が揺れている、睡眠不足。
いや、そればかりではない、か。


授業参観中、少々床が揺れているように感じる。
ああ、油引きもしないで掃除をする床なんだ、
そんなことばかりが気になって、授業に集中できない。
どうして窓が開けっ放しなんだろう、寒いのに。
勝手に閉めたらいけないのかな、授業中の眠気覚まし?
それとも空気の入れ替え? にしても、わからない。
子供は風の子だから? 何かの健康法なのかな?
前回11月の授業参観のときも窓は全開だったよね。
窓際の子達は寒く無いのかな、慣れているのかな。
オーバーコートを着たままで、授業参観なんて、ね。


昨年まではもっと暖かい気持ちで
子供たちの成長を見守っていたのような気もするのに、
今年は家の中でも外でも色々あって心に余裕が無いようだ。
醒めた気分で教室に佇んでいる。
きょうだいのいるお母さん方は掛け持ちで両方の教室を覗くため、
移動のタイミングを見計らっている・・・。

公開授業・研究授業で行う道徳教材ベスト40

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恥ずかしくて聞けない道徳指導50の疑問

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去年も来た同じ教室なのに、前回よりも更に狭く感じる。
それだけ子供たちが大きくなったということだろうか。
グループ討議で男女仲良く話している班、会話の無い班、
バラバラにノートに書き込む班、情報交換しながら書いている班、
それぞれ個性豊かな少年少女の発言内容や発表の様子、
先生が黒板に書き込む作業、それらを眺めているのだが・・・。


バトンを貰う前に、どんな気持ちだったか、その時どう感じたか、
感情面に焦点を当ててその話の主人公の気持ちに寄り添い、
自分自身に置き換えて考えるという流れを、上手に仕切る担任の先生。
若いながらなかなかもって行き方が上手い。
自分が苦手だからチャレンジしたという一番最初の英語の授業参観、
あれが一番印象に残った。5年の担任の先生はしっかりしている。


自分が揺れて、動揺しながら仕事をしている、
諦めている、投げやりになっている、熱意を持てない、
何とかこなそうと錆び付いたギアを握って
必死でアクセルを踏み込んだらエンストしてしまった、
そんな状態で仕事をしている、私。
だから、若い担任の先生の授業が好ましくも、眩しい。
そして、立っているのが本当に辛くなるほど眠い。


後から先生に聞けば、宵っ張りの娘もよくあくびをしているらしい。
こっくりこっくり舟も漕いでいるとか。やれやれ。
しかし、こういう所はまるで似たもの親子ではないか、
情けなくも恥ずかしい。
実に、娘におんぶで抱っこの余裕の無い毎日。


さて、いつもよりも長く感じた道徳の授業。
自分は先人の先輩の「バトン」を繋いで来たつもりだったけれど、
どうやら完走できずにこけまくり、渡し損ね、どちらだろう。
そんな風にマイナー思考に走ってしまうことこそ、駄目じゃん。
ああ、授業参観に来ていても雑念の嵐の中で、
自分で墓穴を掘っている、そんな私。


あれれ、みんな帰っていくの? 学級懇談会は?
いつも本当に皆さんお残りになられない。
せっかく休暇を取って授業参観に来ているのに、
何も聞かずに話し合わずに帰るだなんて、それはちょっと。
・・・でも、話すのはいつも同じお母さんになってしまうのね。
イニシアチブを取って一番しゃべるお母さんのケータイが、
授業中に鳴っていたのを知っているだけに、
本人も持ち主も似ているんだな、なんて考えながら座っている、私。


ああ、これでこの教室も見納めか。
下手糞な書道、家庭科の作品、班毎の写真、学級文庫
あれこれと飾られ、整備され、小さな机が並ぶ教室。
あと暫くしたら、みんな6年生。それぞれの顔が大人びて来ていて、
授業参観中一番気になったのは、その表情。
みんないっぱしの面構えになって来ているんだよね。
女の子のファッションと来たら、制服育ちの私からは考えられない、
結構派手な私服も多い。これで小学生? みたいな。


そう、みんな大人びてきた、見違えるように大きくなった。
その中で、萎んでいるのは自分だと落ち込むかーちゃん。
思うようにはかどらない仕事、進まない計画、まとまらない頭の中。
こんな風に書き散らすだけで終わる個人的な日記ならば、
どんなに提出書類や文書は楽なんだろう。
そんなことばかり夢見てしまう。
かーちゃんの心の中には仕事のバトンはとっくに落ちて、
どこに転がっていっているのか、わからなくなっているのかも。


後継者がいない仕事を役職上立場上、任され続けて、
この先どうしろというのだろう、その思いが先行していて、
新しい種を撒き、育てて、少しでも負担軽減に繋がるよう、
裾野を広げて頑張っていこうという、当初の気持ちも萎えて来た今、
娘の道徳の授業参観はかーちゃんの心に痛い。
「どんな風になりたいですか、どんなことをしたいですか、
 どんなことを感じていますか、考えていますか。
 まとめてみましょう。」
それが冷静に出来るほど、今の私は強くはなれない。
(仕事)人間の形をした藁人形のように、すぐにばらけてしまいそう。
あっという間に、燃えて灰になってしまいそう。
つなぐバトンを見失っている、今。

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