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「ブラック・スワン」にご注意

家人の通院日の翌日、娘が用事でいない時に気晴らしに映画。
そんな日曜日。娘も家人もそして私も無病息災ならば、
土日の間にお会いしてみたいお方もいたのだが、叶わず。
とにかく、娘も興味津々だが年齢制限があって引っかかる作品、
色んな意味で物議を醸している「ブラックスワン」を見に行く。

ブラック・スワン オリジナル・サウンドトラック

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お母さん、子どもが見られないのは「ぴー」だから?
「ぴー」が一杯あるんだろうねえ・・・。
そんな会話を交わすようになった母と娘である。
とにもかくにも宣伝用のチラシはばらまかれ、予告編は上映され、
どこかで仕入れてきた知識と想像力で作り上げる「ぴー」の内容。
思春期、そういうことも必要でしょう。
のんきなかーちゃんはそのぐらいの気持ちで構えていた。


もとい、映画が好きなのは私よりも家人だと思う。
だから今でも昔も映画を見に行くのに二人で見ることもあれば、
それぞれの好みで別々の映画を見ることも多い。
例えば戦争をテーマにしたものは苦手な私。
プラトーン』だの『プライベート・ライアン』等はちょっと。
家人はおどろおどろしたものが苦手なようだ。
だから、無理して付き合ってくれたのかもしれない。

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日曜の午後、『ブラック・スワン』はそこそこの人出。
何しろヒロイン、ナタリー・ポートマンという女優の知名度は高い。
それでなくても映画畑だけではなくバレエ畑の人間も覗きたくなる。
私の世代の少女漫画畑の強者(つわもの)はバレエに関しては、
様々な作品で知識を積んでいるので、『ブラックスワン』のプロットは、
かつての漫画の作品からのパクリではないかと怪しむほどだ。


そのおかげで臨床心理畑が興味を持つような題材、映画は
公開前から物議を醸していたのだが・・・。
どう見ても、ヒロインがヒロインでなければ、このように撮れていたか?
一歩間違えば『ゴシカ』ほどではないけれど、B級ホラー。
いくら名女優が出ていても内容的にえぐく、おどろおどろしていて、
教育上宜しくない、興行的にも賭けに出なくてはならない、
そういう作品がどうして大きな映画館で公開されてしまうのか。

ゴシカ [DVD]

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視覚的な映像は文学的な文字の映像よりも、刺激が強い。
かつてのポケモンの視覚効果処理という技術的な問題ではなく、
様々な内容、画像のインパクトが掘り起こさなくてもいいものを掘り起こし、
植え付けなくても良いものを植え付け、コントロールできない人間に作用して、
とんでもない結果を生み出してしまう。
そのことに対する知識や危惧を抱いてはいたが、まさかよもや。
自分自身が色々思い悩んで落ち込んだり考えさせられたりする分には、
自分の責任内のことではあったのだが、今回は違った。


映画の影響を「現実の痛み」「息苦しさ」発作とも言うべき、
衝撃的な身体症状で経験する様子を隣で見守ることになり、
ある程度までの場数を踏んできたものの、目の当たりにすると悩ましかった。
映画は、気持ちよく晴れやかに見ることの出来る結末ではなく、
それどころか至る場面が「痛い」。
精神的な苦悩も、現実的な痛みも、心身共に切実な「痛み」を演出し、
苦悩が我と我が身を苛む中で変容する病める魂をえぐり出すような作品。


心弱い人間が日常の中のプレッシャー全てをこの作品の中に見て取ってしまうと、
これはなかなかにまずかろう、変な暗示が掛からなければいいのだがと、
思わず危惧してしまう内容ではあった。
されど、少々スプラッタな場面のえげつなさも、物語の進行上、
必要とされるからと頭では理解できても、体が受け付けないことも多い。
倫理的許されないおどろおどろした内容、自虐的で残酷さの目立つ、
決して「真似をしてはいけません」の世界に、毒されてしまうと怖い。
そういう世界でもあった。


が、戦争映画の平気な、最近では戦争とSFが一緒になった『第9地区』など、
結構お気に召している家人にとっては、好みの映画ではなくても、
大丈夫だろうと思っていた私。現実は違った。

第9地区 [DVD]

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幻想の中で変容する主人公。人間から人間ではない者へ、
自らの恐れや自己嫌悪から逃れるために、自分の弱さや無力さを捨て去り、
欲望のために自己を優先する「悪魔的な」心の暗闇に囚われた、
その瞬間の演出に「骨が折れる音」があった。


家人は汗水垂らし過呼吸となり、「痛い痛い」と呻き出す。
音(と映像、ストーリー)が一体となって、大腿骨骨折時の痛み、
手術直後の痛みが蘇ってきたらしい。
何かがきっかけで心身に影響が出るのは珍しいことではない。
が、私より遙かに現実主義で合理的で、どちらかというと醒めている、
そう思っていた家人が、ショック症状を呈していることに驚き、
怪我をしてから4ヶ月を経過してなお、
それほど心身に影響を抱いたまま日々過ごしていることに、
思いやることが出来なかった自分を省み、情けない思いをした。


ストーリーの中のヒロインに同化して心の暗闇を覗き込む輩はいるだろうが、
その心身の痛みに極端に反応して、現実に痛みを感じて喘ぐ人間が、
自分の真横に座っているとはつゆとも思わず・・・。
ストーリーの中ではバレリーナの足の怪我と痛み、故障を抱えること、
現実でもよくあることを表現していたに過ぎない場面も多々あったのだが、
物語の進行と共に追い詰められていく、それと同時に体も変化し、
自分でもどうすることも出来ない、自己不全感、いたたまれなさ。


色んな形で何重にも、家人に影響を与えることになった、
この映画は少々「危険」、なのかもしれない。
いや、「危険」なのだろう。
特に心や体が弱っている時は、尚更危険度は増す。
家人曰く「PTSDってこういうことか、トラウマってこういうことか」と
呟いて自分を納得させようとしていたくらい、しばらく席を立てなかった。


忘れていたつもりでも体が覚えている感触、痛み。
体ばかりではない、怪我をしたことで失われたそれまでの日常。
なかなか思うような回復に繋がらないことによる、不安の増大。
自己不全感の中ですり切れていく自分自身。
そして、「骨折ぐらいでこんな所に来られては困る」と言い放った、
大学病院の整形外科の医師。救急車で運ばれてて来た患者に対して。
治ることへの希望よりも、運ばれて来たことに文句を言った医師を思い出した。


おそらく自分が同じように怪我をしない限り、その痛みはわからないだろう。
死んでもおかしくない怪我をして必死でリハビリをした、
自分で自分の体を切り刻んで手術する、ブラックジャックではないし、
大勢の患者を診る中でのたった一人にしか過ぎない、
その今、まさに痛みに喘いでいる人間に対して、
「命に別状のない痛み」だからと労りの言葉何一つ掛けることの無かった、
その医師への思いと今の自分自身に至るまでの思い。
様々な思いが増幅されて、一挙に思い出されて痛みに凝縮する。


思うように体が動かない、痛みに支配される不快感を医師は知るはずがない。
同じような怪我をし、痛みに喘ぐ経験がなければ。
もし、仕事上得た知識から患者の不安や痛みを慮ることの出来る人であれば、
もう少し違った対処であったとは思うが、「何しにここへ来た」と言わんばかり。
痛みや苦しみに対する思いやりが一言もなく、術前術後の機械的な説明、
退院時もリハビリ病院の紹介もなく、回復への目安や説明も無い。
「まだ、杖をついているんですか」となかなか思うように歩けないことを、
患者が悪いとばかりに責めるような医師に対する思いが、
怪我をしている自分自身への苛立ちと不安が、
一気に「発作」になったかのような。

トラウマの発見 (講談社選書メチエ)

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元来、怪我や病気に対して前向きで、プラス思考で頑張って、
仕事と生活を乗り切ってきた、ある意味とーちゃんは強いんだと、
そう思ってきただけに、今までにないうちひしがれ方、
継続する痛みと不安、怯える姿に改めてかーちゃんもショック。
・・・日にち薬だと言われても、その日にち薬はいつまでなのか。
映画の世界がアンハッピーエンドなのも、こたえた。
痛みや苦しみが終わるのはいつなのか、軽くなるのか、約束されるのか。


滅多に弱音を吐かないとーちゃんの、毎日の生活への不安。
自分であれこれ工夫して頑張るとーちゃんの不安。
それがこういう形で表れたこと、知ることが出来たことに対して、
逆に言えば観て良かったのか、この映画。
悩ましくも、1本の映画に揺さぶられている私たちの日常。
家人とは別の意味で、私の心にも深く刺さる棘。
舞い散る黒い羽で覆われた一瞬。


映画の後のお茶だけでは、気分転換になったかどうか。
本当に・・・。