Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

俳句は遠い

俳句の世界は季節を一瞬にして切り取る。
ざっくりと、物事のとある一面を感性で断面図にする。
そういうものだとずっと思っていた。しかし、実際は違うという話を聞いた。
俳句は江戸時代以前のものと、区別して干渉する必要があるらしい。
何故なら、俳句の概念が明治以降変わっていってしまったから。


昔は、というか、俳句が明治以降正岡子規によって革新される以前、
俳句は和歌の伝統を色濃く受け継いでいた。
季節の移り変わり、あわい、移ろい漂う時間の経過を詠み込み、
瞬間瞬間を鮮やかに切り取ることが主眼、目的ではなかったらしい。
「物事を見る眼」「詠み込み方」が違っていたのだとか。


ああ、だからか。そうだったのか。
俳句の世界が自分には向いていないという思い、感覚に納得。
一瞬を捉える機微や鋭さ、その思い切りの良さやスピード感に
私自身少々のことでは追いつけそうにないと、ずっと感じできた。
おかしな例えだが、足の速い動物を追いかけようにも、
ただでさえ動体視力が衰えてきた老眼の目、捉えられない。
そんな感じ。


脳の働きも俳句用に訓練されてはいないので、
「見つけた」と思ったはなから、「あれ、何だったっけ?」と
対象を見逃したり見落としたりするような、
そんな感覚に囚われてしまう。


かろうじて、写真のように動かぬ景色が眼前にあれば、
その対象の中に入り込み沈思黙考することもできれし、
雷に打たれたように天啓、一瞬に閃くこともある。
どちらの詠みようも可能ではあるのだが、即、十七文字となると、
それだけで目眩がするような、そんな感覚がある。
その短距離走のようなスピード感、爽快感、
次々に言葉と感性が一体となって、綺麗に弧を描くように遠くに飛んでいく、
あるいは近くにヒットを飛ばす、
そんな感覚が楽しくて句作に励む人もいるのかもしれないが。


あれこれと考える時間、多少の猶予もあるものの、文学のブでもない日常。
毎日白紙を眺めて苦吟・朗詠しているわけもなく、押し流される日常。
みそひともじよりも短くコンパクトな十七音に、ノリよく、
もしくは破格の勢いで、枝葉末節を諦めよく切り捨てて、
リズミカルにちりばめて固定させるなど、フットワークの軽い世界、
自分には向いていないとずっと思っていただけに、
今日聞いた話に納得した次第。


文学というもの、文化的な活動というものに対して、親は警告ばかり。
体力気力もない、へなへなとした青瓢箪の、
軟弱な肺病たかりが熱中するものだと、(物凄い偏見)
幼少時に罵られたことがあるだけに、文学世界への憧れは、
嫌悪と気恥ずかしさがない交ぜになり、本格的に打ち込むものではない、
家業にも本業にもならぬものに気もそぞろになるのは、
大人として未熟なのだと無理に思っていた時期があった。


閉鎖的で全時代的な感覚かもしれないが、
オイルショックやその後の親の生活苦を思えば、さもありなん。
娘が文学部なんぞ選び、日本文学、それも上代中古に興味関心とあっては、
現実逃避も甚だしいと、親は内心苦々しく思っていたのではないだろうか。

俳句への道 (岩波文庫)

俳句への道 (岩波文庫)


それなのに、記憶も体力も衰えている老母が動けない寝床で
暗号、日々の行のように、闇雲にノートの白いスペースを、
俳句や短歌・和歌の類で埋め尽くしている。
長い文章は読めないし書けないからと言って。
ノートもメモ帳もチラシの裏も、溶けて流れていくばかりの、
少しも蓄積されず消えていく記憶と対抗するように、
右から左へと抜けていく音や言葉をひたすら書き写している。
読めるか読めないかの小さな文字で、漢字やカタカナ平仮名を、
子供の頃の手習いに戻ったかのような拙さで、或いは、
習い続けたわけでもないのに昔取った杵柄とて、崩し字で。


何事にも先達はあらまほしきもの。
昨日今日俳句のいろはを聞く機会を得て、なけなしの頭を振ってはみるものの、
風鈴の如き涼やかな音色を奏でて、「当たりぃー」と叫びたくなるような
そんな爽快さで勉学は進まぬ哀しさ。
自分の体の上を通り過ぎていく季節は、歳時記通りには出来てはおらぬ。
ましてや、旧暦と新暦のずれを埋める要領や割り切りの良さ、
句作の上での約束事を守る几帳面さも持ち合わせていない。


「真剣」に入る部類の言葉遊びに慣れ親しんだ人々のやり取りを、
異端者の思いで眺め入るばかり、耳の中にはなかなか残らぬ。
読むよりも、鮮やかに切り取る。昨日聞いたその言葉にそぐわぬ自分。
自分の思いは、ぐるりと見渡すといつの間にか周囲を覆っている霞か雲が、
「来よ」と呼んだ覚えは無いというのに、頭の中に厚い靄を掛ける。
観念的に自分の心の中に構成される思いや景色を、
万人向けの、わかりやすい世界に組み立て直し、
一瞬の内に切り取ってみせる、
そんな手妻のような平明さを持って自己主張することなど。


俳句は季節を詠んでも詠まずとも、叙景だろうが叙事だろうが、
結局は短い音律の中に、一瞬を切り取った「自分を読み込む」早業。
瞬間芸に等しい荒業。息せき切って階段を一歩一歩登るのは素人。
多くを盛り込み過ぎず、かといって、深読みもできぬほど単純なものもどうか。
その絶妙なバランスを誇るように、畳み掛けてくる。
そこに供される世界の鮮やかさを共感できる者が必要なのだが、
それはその句を理解することになるのか、感じるだけなのか、
詠み手の意図と異なるものを聞き手が感じ取るように、
無意識に罠を掛けて捻りが入る凝ったものが、練れていて優れているのか。


ただただ疲れた。馴染みの無い世界を覗くのは、こうも心身疲れるものか。
ルーティンワークではないものに首を突っ込むと、
少しは普段使わぬ脳細胞が活性化するかとも思ったが、
これが自分の血肉になるような、いつの日か役立つような隠れた何かに、
本当に変容してくれるものなのかどうか・・・。
「研修は実践の始まり」と言うが、何を勉強しても見聞きしても、
知らないことが多過ぎて、いつまで経っても「よし、これだ」とならない。


俳句はそんな自分、あれもこれも切り捨てることが出来ず、
何を取捨選択していいのか迷いに迷ったまま馬齢を重ねた自分を、
あざ笑っているかのような気がする。選んで磨き上げることが出来ず、
虻蜂取らず、一兎も得られず、いつも「から手」のまま飢えている。
そんな諦めの悪い、脳に栄養の回らない自分をあざ笑っているような世界だ。


少なくとも和歌・短歌の部類はもう少し穏やかで、
上の句で言い尽くせないことを下の句で補い、
切なさ・ひたむきさ心の陰影さえも、上下の句で相補う。
自己主張の世界をぽんと投げ出さずに内包する、
そんな優しさにも似た「広げた掌」の暖かさがある(ような気がする)が、
俳句には「握った拳」を突き出して攻めて来るような激しさがある。
好きな人には奥深く、一句ひねるのは楽しい趣味であり、
張り合いのあるものかもしれないが、自分には訥々と詠むだけで精一杯。
そう思い知らされた葉月の始めとなった。

今はじめる人のための俳句歳時記 (角川文庫)

今はじめる人のための俳句歳時記 (角川文庫)

カラー版 初めての俳句の作り方

カラー版 初めての俳句の作り方