Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

リアル・スティール

映画には様々な仕掛けがある。
観客を見たいという気持ちにさせること。
人気のある俳優を使う。
お涙頂戴路線を予想させるとしても、子役を使う。
人気や興味を引くアイテムを盛り込む。
主題には幸福と不幸、親と子の対立、恋人とのすれ違い、敵対勢力との抗争など、
キーワード、キーポイントとなる要素を噛み合わせて、伏線を入れる。
最後には観客が納得するような解決、エンディングを用意する。
それによって、すっきり爽やか、騙された気持ちがしても、
気分がいいならそれでいいやという思いにさせる。
そんな仕掛けが必要だ。


そういう意味では、見易くて良くできた映画。
激しい戦いの場面があったとしても、限りなく破壊的で、
スプラッタの多いトラウマになるような場面もなく、家族向き。
親子の絆、一人の人間としての再生、そういう主題を歌い上げ、
日本人のDNAに響くロゴが無機質な物体を別のものに見せる。
そのロゴとはATOM。たとえ形が違っていても、言葉を聞くと、
その文字を見ると、必ず連想するであろう『鉄腕アトム』。
そして、その世界が持つ広大なロマン、正義感溢れる家族愛、
泣き笑いするアトムの人間との交流。


ボクシングという人間の生身の技術が、ロボットに移し替えられる。
戦闘能力をかき立てるのは電子頭脳ではなく、人間のプログラミング。
戦う本能はもとよりロボットには備わってはいない。
アイザック・アシモフロボット三原則
それ以前に、立体化したTVゲーム、代理戦争。
SFと程よくミックスされた「再生」のテーマが、分かり易い。


母を喪った息子。仕事(ロボット)を失った父親。
臨まぬ息子を授かった父親。駄目駄目の父親の元に暮らす息子。
父親という役目から逃げ出した主人公は、男としては半人前。
仕事も上手くいかない。生身の戦い方と機械の戦い方。
どちらも中途半端で、恋人にも匙を投げられる始末。
そこに舞い込んだ金づる、降って湧いた11歳の息子。


機械とは異なり、感情を持ち、物を食べ、好き勝手に動く存在。
親譲りの頑固さとガッツで、父親に欠けている部分を補う存在。
生活の糧を稼ぐロボットを失い、絶体絶命の父親。
息子の命の危機と引き替えに、手に入れたおんぼろロボット。
まるで『火の鳥』のロビタのように、不思議なロボット、アトム。
シャドー(模倣)機能が、人を見るまなざしの真剣さを思わせる。
そう、文化は真似ることから始まる。意志の疎通も。
(相手の動作や言葉を真似たり繰り返すのは、カウンセリングでも基本だ)


親しみを持つ、関係を育てる、強固にする、父と子、子とロボット、
父とロボット、その周囲を荒ぶれる環境、世渡りという戦いの現場と、
静謐なまで前近代的な場所になったボクシング・ジム、
生身の存在を休ませる場所、今や育ての親の娘が守るその場所が、
主人公の安息の場となって映画に現れる。
不思議だ、人間が戦う場所が休息の場であり、
動物園や公園など群れ集う場所が、戦いの場となっている。
本来なら憩いの場であるはずの場所が。


ロボットで賭け事、戦い、生活費を稼ぎ。
なのに、抜け駆けや借金は生身の体がツケを払う。
ロボットを操作する向こうに、生身の人間の価値観や感情が交錯。
そして、ただただ、自尊心を掛けて戦う。
息子と共に、息子の期待に応え、諦めない、投げ出さない、
そんな主人公の姿に観客は否が応でも感情移入し、
息子同様憧れ、尊敬し、誇らしく思い、
自分自身の欠けた部分が補われたような、そんな錯覚に陥る。


そう、主人公やその息子や、恋人が得難く思っていたもの、
思いやりや前向きな勇気に満ちあふれた生活、人間関係、
勝ち負けに関係なく、その過程を充実させたこと。
そういうほっとした解放感を伴って、映画は幕を閉じる。
その傍らには打たれ強いロボット、アトムの姿。


人間、打たれ強くなくてはならないってことかな。
スパーリングロボットのように。
つまりは人生にもシュミレーション型ロボットってことか。
打たれても膝をついても、立ち上がる、立ち上がる。
決して諦めはしない。
試合と違って人生には、死ぬまでこれで終了のゴングは鳴らない。
だから、何ラウンド戦えばいいのかさえわからない。


立っているだけで、負けたことにはならない。
本当にそうなら、立ち続けなければならない。
そんな気持ちにさせられた、レイトショー。

リアル・スティール-オリジナル・サウンドトラック

リアル・スティール-オリジナル・サウンドトラック

REAL STEEL

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