Festina Lente2

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WYSHと「ブーリン家の姉妹」

WYSHプロジェクト。関わる関わらざるに関係なく、
人権上の問題、教育関係者・医療関係者は注目。
もともと青少年のHIV感染を水際で止めるために始動した。
しかし、医療や福祉の問題は、教育に帰ってくる。
どのように生きたいか、どんな人生を送りたいか、
どんなコニュミケーションが望ましいか。
生き方の問題に関わらなければ、生活の質は変わらない。
生活の質を換えなければ、生き方の質を変えることはできない。


私達は夢を見る。私達は理想を諦めることができない。
私達は、企画する。実現可能な心の交流を。
刺激を。刹那的な現実逃避の衝動に走る生き方に変化を与える、
画期的な刺激を。優しい眼差しを。しなやかで柔軟な生き方を。
私達は、哀しい現実をこのままにしておくことはできない。
今の社会のせいばかりにするのではなく、
自分の中にある力で、自分自身も人も守ることができる、
変えることができる力を、教育の中に見出す。


そんな、WYSH教育を夢見る。http://www.wysh.jp/
Well-being of Youth in Social Happiness

10代の性行動と日本社会―そしてWYSH教育の視点

10代の性行動と日本社会―そしてWYSH教育の視点

Quiet Storm 静かなる嵐―HIV/エイズとたたかう人々の勝利のために

Quiet Storm 静かなる嵐―HIV/エイズとたたかう人々の勝利のために


色々現場の実情を聞くと、やっぱり結構綱渡り。
今年できたからといって、来年もできるとは限らない。
建った2時間の連続時間さえも確保できない学校現場の、
プログラム・カリキュラム、教育の現場ってどんなものだろう。
それほど予定が詰まっているのに、ゆとり教育
ゆとり教育をやめていても、余裕が無い?
殆どの学校では、HR(学級活動・特別活動)は有効利用されず、
授業に切り崩されたり、行事に取り込まれたり、
果ては席替えの時間だけで終わったりしているというのに。


むろんそれもこれも、教員が何もかも一人でしなければならない、
家内製手工業のような毎日を強いられていて、
教材研究・研修どころか、活力を見出す連携のための雑談も、
横の繋がりも持てないまま、毎日をやりくりしている実情が
あるせいだとも思えるが。
つまり、個人的な努力では限界がすぐに来てしまう。


上からの改革意識が無い限り、教科や分掌・行事の枠を取り払って、
組織が一丸となってプロジェクトに取り組むこと難しい。
至難の業。要は、誰が掛け声をかけるか。
組織は下からの改革ではなくて、
上からでなくては動かせない部分が、まだまだ多い。

ブーリン家の姉妹 1  上 (集英社文庫)

ブーリン家の姉妹 1 上 (集英社文庫)

王妃の闘い―ヘンリー八世と六人の妻たち

王妃の闘い―ヘンリー八世と六人の妻たち

久々にレディスデーの今日、『ブーリン家の姉妹』
エリザベス女王時代の歴史を知る人間には面白い舞台裏。
何と言ってもあのヘンリー8世と6人の妻の時代。
性の目指すところいずこ? 自由恋愛・自由結婚・世継ぎよりも
とっかえひっかえの愛人・正妻のまだら模様の王の私生活。


愛を欲したのか? 欲情に身を任せたのか? 権力を望んだのか?
権力の犠牲になったのか? 最初から権力の道具としての愛と性?
それとも本能を宥めるための、性と愛? 
家? 一族? 出世? 権力? 
姉妹の絆よりも、自分の本能・欲望に忠実であること?
現代の常識が通用しない野蛮な時代の愛の形だというが、
性愛に根ざす欲望のエネルギーが、ローマカトリックからの独立、
英国国教会の成立、ヨーロッパの覇者としての布石になるとは、
だから歴史は面白い。


男の世継ぎを望んで燃えられず、処刑された女の娘が英国の治世を握る。
しかし、その後の血統はカトリックの血筋ゆえに処刑された、
メアリー・スチュワートの血筋が現代まで続く。
全く歴史はわからない。
プロジェクトなど関係ない、冷静さに欠ける、跡継ぎのための、
「衝動」は、結構世の中を動かす結果になっているのかも。

ヘンリー八世の六人の妻(紙ジャケット仕様)

ヘンリー八世の六人の妻(紙ジャケット仕様)

ヘンリー8世とムジカ・スペクラティーヴァ~ボールドウィン・マニュスクリプト~

ヘンリー8世とムジカ・スペクラティーヴァ~ボールドウィン・マニュスクリプト~

ならば、何のための教育。現在の。今の時代の。
権力闘争に無縁の一般庶民の、無防備で無知な、
不妊と性病に蝕まれた、ニートとひきこもりが溢れかえった、
無力感の裏返しの虚栄に満ちた半バーチャルな世界。
その片隅でキーボードを打っている自分。


私自身は、何かから逃れたくて田園に引きこもったはずなのに、
何かの流れに巻き込まれて仕事をしている。
望む望まざるに関わらず。
ブーリン家の姉妹の生き方を、醒めた目で見ながらも、
結局仕事をしながら、そういう流れに逆らえないのか?
懐疑的になる。


誰にとっての、Wellbeingなのか、わからなくなってきた、
混沌とした中にあって、あれもこれも任されても体は一つ。
仕事と結婚することはできない。
自嘲的な気分で、研修後の夜、『ブーリン家の姉妹』を観る。
愛情に生きるのか、権力に生きるのか。
家庭に生きるのか、仕事に生きるのか。
悩む・・・。


日々の仕事の片隅で、母としても娘としても。
娘をもつ母としても、娘として生きてきた自分である事も。
この映画の中で一番悲劇的なのは、姉妹の母親だから。
姉妹に焦点が当たっていても、その流れの中に母がいるから。
この娘達を育てたのも、見送ったのも、失ったのも、
この母だから・・・。
育てる側の問題なのか、育てられる側の資質の問題なのか、
社会の状況が最優先されるのか。


性は、我々をどこへ導こうとしているのか。
繁殖し過ぎた人間を淘汰するために、地球規模的な病の発動。
それならば抗う必要もない。流されていけばいい。
そうでないから、それだけではないから、問題。
何を守り、何を育て、何を伝えていきたいか。
その向こうに、私達の考える世界が広がるはず。
性の導く所、人が人として人らしく生きる場所。
私は夢見る。そこで自由に暮らす自分を。

娘たちの性@思春期外来 (生活人新書)

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エイズ感染爆発とSAFE SEXについて話します

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