Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

今日の私の心の整理

研修前、家人と待ち合わせ。今週は研修で週末が全て潰れている。
家族の時間を大切にしたいが、師に教えを仰ぐというか、
ワークショップはナマモノなので一期一会だ。
それこそ清水の舞台から飛び降りるつもりでしなければ、持たない。
家族と過ごす時間がただでさえ少ない私にとっては、休日や祭日、
土曜日曜が潰れるのは嫌だが致し方ない。


せめてもと、ランチを一緒に。以心伝心か、予てより行きたかった、
生パスタを出してくれるお店で、グラスワインを傾けランチ。
濃厚なリゾット、甘いドルチェ、満足。もう少し食べたかったな。
天神さんにお参りする人の多い昼下がり、盆梅展も見たいが時間が無い。
家人に「井上直久イバラード展」を見てくれるように頼む。
(サイン入りの御土産は予想外で、嬉しさこの上ない)


今日一日、夜までワークショップは続く。
出かける前からプレッシャーが掛かる。
何故ならば、ワークショップは遊びではない。
足の痛みを服薬で誤魔化している私は、ちょいとばかりぼーっとして
気力・体力が持たない。ただでさえそれなのに、眠ってしまうこともしばしば。
耳だけ目覚めているものの、耳さえも素通りのことも。
アンテナをずっと張り続けていることが出来ないのは、訓練の少なさ、
素質のなさ、気合の少なさ、全く持って情け無いこと限りないが、
そこで引いてしまうと、何も学べない。


高いお金を掛けて、何をしているんだと言われそう。
しかし、ある意味意識的にも無意識的も距離を取らないと、
(分析派は「抵抗と防衛」というかもしれない)
自分の「心身が持たない」ということもある。取捨選択。
何もかも受け入れ動じない自分を作り上げる訓練にならないではないか、
なんという不届きな研修姿勢だと、なじられそう。
心理的な守りを持つために、「しんどくなる自分」は、
自身で引き受けなくてはならない。
そのため、人は様々な防衛を持つ。
本能で、もしくは経験を積んで自分を守る。
もっとも、みんながみんな正しい自分の守り方を
            しているかどうかは別だろうが。

記憶のゴミ箱―パールズによるパールズのゲシュタルトセラピー

記憶のゴミ箱―パールズによるパールズのゲシュタルトセラピー


どこにも完璧な人間なんかいない。
なりふりかまわず生きている人も多い。24時間全力? 
そうじゃなくても、ある一瞬、その場面だけは
自分を全開にしないと持たない、
ナマの自分をさらけ出さないとやっていけない、
そう思い、その全部を受け止めてくれる人間を求める人も多い。
そういう生き方を否定しようとは思わない。


そういう人と接する時、自分を守る。相手も守る。距離を取る。
安っぽい共感はしない。安易な同情で引きずられない。
それは、自分が思っているよりも遙かに難しい。
自分は自分の感情の波に左右され、客観的に醒めて観ることばかりを
目的に生きているわけではないから、波を被る。


私たちは、毎日被る波をいかに乗り切るか、そのために齷齪する。
精神的な肉体的な、経済的な物理的な、様々な絡みから逃れる為に、
一瞬の安寧のために多くの時間を殺伐と過ごし、またその逆もある。
心の奥深くに蓋をし、地獄の釜の蓋に等しい闇を宥め透かして、
ほの明るい(ほの暗い)思い出の中に
かりそめの自分をそっと放し飼いにしたりしているのだが・・・。

ワークショップ入門 (日経文庫)

ワークショップ入門 (日経文庫)

 

しかし、仕事や研修がその部分を扱うとなれば話は別だ。
学びの場やワークショップでは、自分を守り人を守り、
限られた空間を安全な場とし、守秘義務を守る。当然だ。
あれこれ考えながらその場に向かう時、プレッシャーは掛かる。
期待と同時に恐れもある。なのに、私は向かう。


日常生活いずれの場面でも同じなのに、人は忘れる。
ルーティンワークであれば安全であるように、
日常生活は崩れないと、いつもと同じ日々が続くような錯覚を抱いて、
心の平安を「仮置き」しながら、毎日をお膳立てしている。
それはそれだけのことだが、1日1日そうできることがとても重要だ。
日々に感謝の祈りを捧げるのは、職と食を得、1日が過ぎる、
そのことばかりではない。「我等を試みにあわせず」、
目に見えない何かに守って貰うこと、
守ってもらったことに対して感謝を捧げる。
人は傲慢になってはならない。


人の心の深遠を垣間見る時、自分ひとりでは耐えられないから、
誰かの助けを必要とする。自分だけでは持たないと思える時も、
その場でその思いを共有できる誰かが寄り添い、
その思いを受け止め、その言葉に耳を傾けてくれるからこそ、
耐えることができる、新しい側面を見出すことができる。
そういう創造的な場に直面しながらも、自分を全開することに躊躇がある。
自分自身を守らなければならないと強く意識する。


真剣に何かと対峙することは、自分を全て出し切れば、
それでいいのだということではない。それでは自己満足になりかねない。
人をどれだけ信じ、信頼し、自分の思いを吐露することができるか、
言えない人間は弱いのか、言えることが強いのか、その比較ではなく、
どこまで言えるか言えないかは問題ではなく、
「そのような状態ある今」を大切にする、
(耐えたり嘆いたりすることも含めて)
ことだと自他共に認め合う空間、認識を共有し、創り上げる事に
専念、誠心誠意を尽くす。


間違ってはならない。「無私」であること、全てを出し切ること、
それが許される全てではない。自分が全てを出しきったからとて、
何かが100%上手く行くなどということはありえない。
その気持ちを抱きながらも、諦めずに疑いや悲憤だけに囚われずに、
信じようと思えること、向き合おうと思えること。
自分は全てを捧げたのにという言葉、思いは時として傲慢。
だから、全てを失ってしまったということも傲慢。


ワークショップの場に臨むとき、いつも疲れ、緊張する。
快い緊張感で漲る時もあれば、重苦しくだるくなる時も。
心身の症状に移行しかねない(する場合が多い)そのセッションを、
自分の責任において引き受け、処理し、経験を積み、
自他の心の深遠にどれほど暗い裂け目があろうと、
見つめなければならない時は見つめ、見下ろし、飛び込み、這い上がり、
再び日常に戻って、天岩戸を閉じるように心に蓋をする。
自己流で行ってはならない危険な領域を学ぶ。


そんな一日の始めに、そんな一日を過ごす時に、たった一人で臨む前に、
誰かと食事をしたいと思うことは、大それたことではないだろう。
心の栄養は、日々の食事の温かさ、目の前にいる人の優しさ、
共に過ごす時間の密度の高さ、目に見えない誰かの何処かからの、
あなたにも私も届いているはずの声なき声。
その思いや言葉を時空を超えて感じることができる時、
現実だけに直面し当たって砕けるなどという、
そういうことにはならないだろうと私は信じている。


あなたの言葉は届く。私の言葉と同じように。
あなたの悲しみは届く。私の悲しみと同じように。
そのことを信じない、信じようとしない時、全く信じられない時、
あなたはあなただけの世界に閉じこもる。
それが一番いいと思うのなら、あなたはそうすればいい。
そうするあなたを見つめる誰かがいるように、私も見守って貰っている。


ハードな研修、ワークショップ後こんな言葉を誰にともなく思い浮かべ、
どっこらせえっこらせと疲れ切って家路を辿る。
これは誰でもない自分が選んだ研修。ワークショップ。
のんびりした休日とは裏腹に、押し流されるように丸一日の研修。
それでも私は、参加できるまでになった自分を愛する。
学ぶ時間を許してくれる家族に感謝する。

気づきのセラピー―はじめてのゲシュタルト療法

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