Festina Lente2

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投影に囚われる

娘が明日から4泊5日のキャンプに出かける。
私は子供時代そういう経験をしたことが無い。
遅くに生まれてきた、超高齢出産で授かった一人っ子に、
色んな経験をさせたいと親ばかのかーちゃんは、
きょうだいを得ることができなかった娘のために、
1年に何度かは宿泊キャンプに参加させているのだが、
これが丁と出るか半と出るか、わからないままま、
親の希望的観測の元、「体験(経験)」重視で送り出している。


そう、何事も経験が大事。知っていても、よく見知ったものでも、
他人の目を通して、別の場所で、違う言葉で表現されること、
時と場所を異にして提示されると趣きもがらりと違う。
却って抑えていたものが噴出してくることもある。
困ったなあと感じたことは一度や二度ではない。
今は目の前に集中しておきたいと思っていても、
とんでもなく湧き出てくるものに出くわし、
その動揺を抱えつつも、直面することになる。


その訓練を忘れてしまった、自己流になってしまった、
スーパーバイズの無いまま見過ごしてきた人間にとって、
心がフリーズしてしまったまま、自分の思いを、
誤魔化したり別のものにすり替えたり置き換えたりする。
そうやって一時しのぎにその場を離れる。
しかし、それは時間を経てもなくならない。
ぱっくりと開いた地獄の釜のふたのように、
何らかの施餓鬼のようなことを行わなければ、
元に戻ってくれない、自分の潜在意識、投影。


四隅にある葡萄、青いガラス球、白いサンゴ、鷲のぬいぐるみ。
薄緑の瑞々しい色、さわやかな深い青、干からびた白、動物の黄土色。
そして、中央に何も入っていない籠が置かれる。
私の頭は目の間にあるものに集中できずに、
自分の心の蓋が外れる音を聞く。


今評判になっている映画の世界のように、
相手の投影を見つめる度量が無い人間は、
自分の投影に仕事を邪魔される。
訓練も然り、ああ駄目だ、やっぱりできないなあという、
諦めにも似た砂漠のような砂の山を、小さな箱の中に見る。
それは人のものなのに、自分の内部に投影して、
反響させてしまう。その残響に心を奪われて、
目の前の意味を読み取れなくなってしまう。
これでは訓練にならない。これでは練習にならない。

河合隼雄と箱庭療法 (箱庭療法学研究)

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現代箱庭療法

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あれはまだなにも知らなかった頃。無邪気に過ごした最期の夏。
山梨に葡萄狩りに行った。生まれて初めての葡萄狩り、家族旅行。
エスニックなサンドレス、バスに揺られてたわわに実る葡萄を好きなだけ食べる。
食べる量など知れている。エメラルド、ヒスイ、黒真珠の如き輝き、
自然の色が溢れる。自然の恵みがふさふさと垂れ下がる。
そのぶどう棚の見事さを、青空の下に広がる涼やかな木陰を、
命の色にも似た瑞々しい色を、その味と共に、忘れることは無いだろう。


それは、生まれて初めて富士山を間近に見た夏。
お花畑広がる向こうに、見え隠れする富士は雪も無く黒い。
広場の中を行ったり来たり、幼い娘と共に歩く。
私たちを写真の取る夫の姿を、スローモーションの映画の中の、
ワンシーンのように思い出す。無邪気だった私たちの最期の夏。
花は咲き乱れる。娘は幼く何も知らずに成長する。
私たちの宝物。


暗い宇宙の中にあって一つだけ輝き続ける水色の星、
地球のように清らかに青い青い星。
砂漠の中にあって、そこだけが青い。涼しげて冷たい。
熱い思いを浸すように、何かが湧き出るように、
何かを思い、鎮め、シンとして微動だにせず、
そこに在る。


瑞々しい薄緑と青い地球とは対照的に、白いサンゴ。
干からびたサンゴの欠片。白い砂の上に白いサンゴ。
美しいというよりは痛々しくちっぽけなサンゴ片。
その骨ばった乾いた感触を、夏の終わりから秋に垣間見た、
The Reaperの影。刈り入れと同時に訪れる季節の終わり、死。
あの夏の終わりから半年間以上、我が家を覆った黒い影を連想させる、
乾いた白いサンゴの感触に、焼き場の骨を思い出す。
そんなに形がはっきりしているわけでも無いのに、
白い砂、白いサンゴ。形無く崩れ去っていくもの。


飛べない鷲、幼い子供、本能と生命力の勝っている、
まだ飛べない鷲、幼い娘、今まだ翼を鍛えることのできぬまま、
いったいこれをどうやって、この時間を、今までをこれからを、
そんな風に思いながら、中央にある空っぽの籠を見ると、
今まで築き上げてきたものは、失くなるということ?
空白の中央、空っぽの私の世界?


脈絡の無い当為の中に囚われる。
これは私が作った世界ではないのに、
目の前に提示されたアイテムの中に勝手に落ち込む私は、
あの評判の映画の中で虚無の中に落ち込んでいく、
ほんの少しの間に何年間も何十年間も過ごす、
「失敗した」「後悔だけを胸に死ぬまで年をとって」
その意識の中で苛まれている、見たくはない自分の姿そのもののよう。 


意味を見出すのは私ではない、相手のはずが、
自分の連想する今この場では無意味にしておきたいものに、
意識に上らせたくない投影に引きずり倒される。
過去の解決されていない問題が、地獄の釜の蓋を開けて這い出てくる。
お盆が始まるから? そう、夏は心のお盆の季節だ。


今年も、花火と共に打ち上げてきれいさっぱり消えてくれればいいものを、
意識しながら向かい合う季節がやって来る。
これは、抱えているだけでもエネルギーの浪費。
されど、これが私の世界。
これが、自分が向かい合う世界。
暑い夏、うだる昼、うだる夜。その中で向かい合う世界。


砂漠の空っぽの籠が、
水を吹き出す井戸やオアシスになるのはいつか?
いつなのか。投影は、まだなにも教えてくれない。
突き刺すような痛みを思い出させ、感じさせるだけで、
繰り返し押し寄せてくる波のように、記憶を掻き分け、
呑み込もうとやって来るだけで。

バウムテスト―自己を語る木:その解釈と診断

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投影法の現在 (現代のエスプリ別冊)

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