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エンダーのゲーム

火曜日。ちょっとだけ映画が安い日。
SF映画『エンダーのゲーム』を見る。
話題作の割に人がいない。
映像もストーリーも、まあ、それなりに結構良かったと思ったが。


元の原作を読みこんだのではなく、紹介しただけの粗筋なので、
大体の雰囲気だけはつかんでいたが、それにしても、
戦争をゲーム感覚で行って、その技術力で打ち勝とうとするとは…。
そのために子供を教育し、兵士に育て、戦士として生身で戦うというよりは、
最終的に模擬選と思わせ、実践に転換するあざとさ。


異文化、異民族との和平もなく、理解もなく、妥協も決別もない。
あるのは一方的な抹殺のための殺戮技術の上達とは。
人間的な感情よりも、別の感覚を研ぎ澄ますことを求められる、
勝利至上主義のゲーマー肯定の世界観なんだろうかと、
見ていて不安になったが、主人公が自分のしていることに対して、
常に冷静でありながら、懐疑的、なおかつ、
置かれている状況を打破するために理性的に動いているが、
決して計算高さだけではなく、秘めた情熱、愛情などを持っていることが
わかる映像なので、かろうじて安心できる。


それにしても、どうして外国の映画は地球が滅亡するか否か、
攻められるか守れるか、二者択一だけの世界なのだろう。
敵と味方しか存在せず、中間層もない。
いつも人類は孤立して敵と戦わなければ、自分を守れないのか。
もっとも、身内で殺しあう地球人と宇宙からは揶揄される、
情けない存在なのかもしれないが。


そして、何故か宇宙からの侵略者は昆虫型だったりする。
どうしてタコやイカの軟体類から昆虫という、
自然からの逆襲を投影したような異星人になるんだろう。
おまけに、『エイリアン』の時もそうだったが、
女王がたくさんの卵を産み、子孫を育てる形。
なぜ、そういう形の繁殖形態を異星人に求めるのかわからない。


文化相対主義ではなく、文化絶対主義なのか。
何かを貶めることによって、一方の価値を高めることに執着しているのか。
戦闘とは、隠すことで成り立つ欺瞞、
無垢な未来への希求を、あっさりと身も蓋もない「抹殺」ヘと変えていく。
それにしても子供のゲーム感覚に頼って、戦争を進めようとする大人の醜いこと。


未来はこういう形で守られなくてはならないのだろうか。
SFの一つの型として、疑問が残った。
もっとも、未来を描くSFで能天気に明るいヒーローものが
描ける時代ではないのは確かなのだが。


主役のエイサ・バターフィールドは、『ヒューゴの不思議な発明』で、
印象的な少年だったので、観たいという気持ちもあったのだが、
子役が成長するのは難しい映画の世界でどうなるか、楽しみではある。
ハリソン・フォードが、才能のある若者を戦場へ連れ出す、
ある意味、女衒のような軍人として描かれているのが微妙だった。

エンダーのゲーム (ハヤカワ文庫 SF (746))

エンダーのゲーム (ハヤカワ文庫 SF (746))