Festina Lente2

Festina Lente(ゆっくりいそげ)から移行しました

久しぶりに読書らしい読書をし

出張と友人の父上のお通夜に出かけて一両日、斜め読みで小説を読む。
この頃は本を読むのは疲れるので、避けているちょっとぶ厚め読書。
何故か出張時というか電車の中というのは、よく本が読める。
通学時の癖が残っているのか非常に集中して、速読も熟読もできる。
周りの世界から遮断されたいと言う無意識の欲求が、
自然な読書体というものを創り上げるせいなのか、
雑音と称すべき周囲のざわめきが、丁度、思考の壁になって
外界を遠くに押しやるというか、誠に苦労せずに読める電車の中。
むろん満員電車で立錐の余地もない環境では無理で、
適度に空いているから可能なのだが。


私は本当に読むのが苦手になった。ブログを始めてから、ますます読まない。
書くのに熱中していると言えばかっこいいが、放熱現象に近い。
苛々やもやもや、心のざわめきを吐き出しておかないと、
溜まる一方というか、もうこれは溝掃除もできないのでという脳内環境を、
一掃するのは無理でも、癖の付いた箒で掃いておくだけでも掃こう、
そんな手抜きの掃除にも似た、四角い部屋を丸く掃くような思考回路の
要求に従って駄文を書き散らすというのが、この所の日常生活。


何しろ自分事だから、人が読んでも毒にも薬にもならない。
仕事用の公ブログなんぞしたら、余計に神経が参ってしまう。
仕事と家とを行ったり来たりしている、日常と非日常を行きつ戻りつ、
白昼夢と夢との区別が付いているからこそ、朝起きる私。
区別が付かなくなれば、それはそれでどんなにか楽だろうと思ってしまう。
いわゆる「虎」になってしまえば、いっそ楽ではないのかと、
人間の心が残っている「虎の姿の李徴」のような心境でいる。
・・・人の心を失うのは、たとえようも無く恐ろしいと思いながらも。


そんなふうに思っているフワフワとした心の流れに沿うように、
楽に読めた保坂和志の『小説、世界の奏でる音楽』新潮社、2008
筆者の考えている心の流れに沿って、何だか一緒に流されているように読める、
このフワフワした感覚がどうしようもなく気持ちいい。
しいて言えば今まであまり経験したことのない、
型破りな読者感覚を味わうことができる、とでも言えばいいか。

小説、世界の奏でる音楽

小説、世界の奏でる音楽

小説の誕生

小説の誕生


本の紹介なのかエッセイなのか、それとも評論なのか。
小説論というにはタガの緩んだ、何一つきちんとした形になっていない、
そんな形態をかろうじて繋ぎとめているのは何なのだろうと模索させるための様式、
体裁、そういうものを工夫して書き上げたのかと感じさせる本。
どこが頂上か、よくわからないままだらだらとした上り坂を上り、
下り坂を下るような、そういう読書。
読んでいるのか読まれているのか、主客転倒しているような。
例えばよく描かれてた肖像画を見た時に感じる、
どこから眺めても絵の中の瞳が自分のほうを向いているような、
あのぞくっと来るような微妙な感覚。


世界が奏でているのは決して耳に優しい音楽ではなくて、
自分独自の夢・思考・生態リズムの鼓動なのだけれど、
それを目で読む形で眺めるならば、そう、聞き流すのと同様に読み流すのならば、
こういう本になるのだろうか、そんな印象を受ける。
何が言いたいのかわからない世界を一緒に旅しているような、
ブログ的日常生活を高尚な形而上学的な例え話と共に、
或いは傾倒している作家への執着を軸とした思い出話に、
家族で関わっている猫の話を中心に、
連綿と語り継がれている中に、入れ子のように幾つもの作品が紹介され、
抜書きされ、並列され、批評されている。


それは、客間に人を通す前にあちこち家の中を案内して、
その家の主人だけにわかる薀蓄を披露して悦に入っている、
そんな印象さえ受ける書きっぷり、進みっぷりだ。
読者はこの筆者にどう付き合えばいいのだろうと、ちょっと煙に巻かれたような、
狐につままれたような印象を受けながらも、突き放すことができず、
そのまま一緒に歩いている、そんな旅の道連れになっている。
そんな読書を続けた。


私は電車に乗っている。出張に出かけるのに、通夜に出向くのに、
そしてそこから、ブログに備忘録に書き込むように余韻を綴る。
日常生活に読書が、ほんの世界がリンクしているような錯覚を覚える。
そんなふうに小説論を読むなんて、そういう事ができるなんてと思いながら、
時間が過ぎていく。現実の中でも、本の中でも。
私は私の脳内で音楽を聞くが如くに、心地良く現実を眺めることは出来ないが、
日々の出来事の余韻を否応無く心と体に沁み込ませながら、生きている。


本の最後の方で話の中心が『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』に及んだ時、
ああ、サグラダファミリアにも喩えられるその建築物の写真を添えた段階で、
視覚的にも内容的にも自分の小説論をこのような形に持って行きたかったのか、
ここに集約したかったのかと思い至った。
たった一人で石ころと33年間も積み上げて、夢の宮殿、
その情念を象った建築に携わり続けた郵便配達夫の物語を模して、
自分自身の読書体験を抜書きし、日常を散りばめ、故人への思いを綴り。


観念的な世界を実写するために、絶版になって読者には手に入り辛い作品を、
模写するが如く長きに渡って抜き出して引用し、
世界と世界を接着させるために、その隙間に自分の言葉を埋め込む。
音楽が奏でられるように、一つのメロディーではなく幾つもの旋律が重なり、
多種多様の楽器で奏でられるように、幾つもの作品群のカラーを、リズムを、
作品世界を重ね合わせることによって、綴れ織りのように世界を構築し、
実はその思念と言葉の交じり合った世界が、何に酷似しているか、
種明かしをして終わったような、そんな印象を受けた。


これが、今時の小説論ならば、日々読んだり書いたりしているブログは、
ある意味、最前線じゃないか、そんなふうに不遜に思ったりした、今日。

途方に暮れて、人生論

途方に暮れて、人生論

小説の自由

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